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「鳥羽の日」に思いをはせる円形ホテル「鳥羽観光センター」と戦後の「観光」

10月8日は「木の日」であるとともに「鳥羽の日」です。

三重県の鳥羽といえば「鳥羽SF未来館」ですが、それに匹敵する名所(※独断と偏見によります)が円形の不思議なかたちをしたホテル「鳥羽観光センター」(現存せず)。

ホテル鳥羽(観光センター)(『鳥羽の観光50年』鳥羽市観光協会、1980年)

鳥羽がロケ地のドラマ「探偵物語」第21話「欲望の迷路」(1980年2月12日 放映)をあらためて視聴してみたら、松田優作と風吹ジュンの背後にチラリと「鳥羽観光センター」がみえます。あ、ぶらじる丸も。

「探偵物語」第21話「欲望の迷路」

古い伊勢志摩関連観光パンフや旅行雑誌・記事などをペラペラめくっていると、鳥羽のモダン化まぶしい姿がたくさんでてきます。それは「神都」としての伊勢や「漁村」を謳う志摩とは異なった相貌。

伊勢志摩関連観光パンフ・冊子いろいろ

そんなモダン都市・鳥羽を象徴した建物のひとつが「ホテル鳥羽観光センター」。広告には「真珠と海女のふるさと鳥羽へ」とともに「話題の円型6階建ホテル」とあります。たしかに美しい円形建築で、竣工した1962年当時は、かなり「未来都市にありそうな建築」感だったはず。

ホテル鳥羽観光センター(トラベルグラフ、鉄道弘報社、1968年1月号)

戦後建築のあゆみのなかで円形建築といえば建築家・坂本鹿名夫。坂本鹿名夫作品集のタイトルもまんま『円形建築』(日本学術出版社、1959年)。そして、なんとこの円形プランの「鳥羽観光センター」もその坂本が手がけ、さらにはこのホテルの3年前、1960年には「鳥羽中学校」もこれまた坂本円形建築でもって竣工しているのでした。

なお、鳥羽市と円形建築王・坂本鹿名夫については、梅宮弘光先生の研究がに基本情報&有益情報満載です。

ちなみに円形建築王・坂本は「鳥羽中学校」のみならず、たとえば同じ三重県内なら「朝日小学校」(1962年)も手掛けています。鳥羽も朝日も、そして他の円形校舎も竣工時期が集中しているのは、大幅な生徒数の増大、そして伊勢湾台風被害によります(鳥羽は台風前に着工)。限られた予算で、かつ防災面を考慮した鉄筋コンクリート造でつくるのが必須だったから。

大和ハウス工業の移動教室が売れまくった当時ですから、たくさんの児童・生徒を収容するため機能的な空間配置も必須だったことでしょう。防災対策と生徒急増、そして近代化。これらの要件が円形建築の妥当性へとつながっていきます。「最も経済的に造る」「純粋機能主義」を信念とした坂本鹿名夫の真骨頂なのでした。

円形校舎の「鳥羽中学校」や「鳥羽観光センター」を鳥羽にもたらしモダン化を牽引したひとびと。その筆頭が市長・中村幸吉。1954年、志摩郡8町村が合併して誕生した「鳥羽市」の初代市長をつとめた人物です。坂本と中村の縁はどうやら「金毘羅宮鳥羽分社」(1956年)にはじまるようで、ふたりをつないだのが近畿日本鉄道、いわゆる近鉄です。

「金毘羅宮鳥羽分社」(「伊勢志摩」天王寺鉄道管理局、1960年代後半)

伊勢志摩の観光地化を強力に推進した近鉄は「海洋観光都市」を掲げる中村市長を手厚く支援するわけですが「鳥羽金毘羅宮」建設も鳥羽の地域振興をすすめる中村市長と鉄道利用を促す近鉄の思惑が一致したことから展開したようです。坂本鹿名夫を育てたパトロンが近鉄でした。なお、香川の金毘羅宮を分祀したゆえ「金毘羅宮」の「鳥羽分社」。

円形建築にくらべるとずいぶん大人しい意匠にみえますが、当初の計画案は純粋機能主義者・坂本らしく、もっとヴォールトを多用した最先端なの提案だったよう。とはいえ決定案も印象的な水平庇や真っ白な姿は、当時の伊勢志摩にあっては十分にモダンな印象を与えたはず。

坂本の手がけた「金毘羅宮鳥羽分社」は市長・近鉄の思惑どおり観光スポットして猛烈にプッシュされることに。ここでつくられた縁が「鳥羽中学校」につながります。新制中学のスタートは全国各地で校舎問題を生みますが鳥羽も例外ではありませんでした。むしろ鳥羽市になったことから村々の中学生受入れもあって生徒数は急増。しかも平地の少ない鳥羽は最適な学校用地確保も難航。もちろん財政も余裕なし。円形建築がブレイクスルーをもたらしたのです。

「鳥羽中学校」竣工間もなく、1962年には巨大円形建築「ホテル鳥羽観光センター」が完成。1955年開業時にはまだ小さかった鳥羽水族館も、1960年代にはイルカと海女の共演、イセエビやアワビなどをテーマにした海洋博物館などが整備されていきます。

あと、観光都市・鳥羽のあゆみに寄り添うように発展し、そしていまは廃業している「ニュー美しま」については以前、noteに書きました。

日和山エレベーター、パールアイランド、イルカ島など観光メニューが揃う。近鉄のバックアップをもとに展開した中村市政下での近代的観光拠点化は、その急成長ゆえの光の部分があると同時に、そのまぶしい光ゆえの陰もまたあったはずです。その光と陰の両面と重なりこそが、高度成長とともに歩んだ伊勢志摩の発展のあゆみなんだろうな。「観光」とは言い得て妙。

なお、鳥羽の近代観光都市化は「鳥羽小涌園」をはじめとする藤田観光による観光地開発も忘れちゃいけないのですが、それはまた別の機会に。

フジタ鳥羽小涌園 (藤田観光、1968年)

そんなモダンな観光都市として成長した鳥羽を、戦後の「観光」史という視点から、過去・現在・未来に思いをはせつつ、あれこれめぐるのもまた楽しいかと思います。

(おわり)

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