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次世代に託した未来建築の「回路」|建築史家・関野克『建築のいろいろ』を読む

独身の頃、たまの実家帰省のたびに母が「あれもってけ、これもってけ」と言って、到底食べきれない食べ物や、あきらかに必要ない品物を押しつけられることしばしば。
 
そんな母に私が素っ気ない態度をしていると、それをみた叔父が「仮に捨てることになろうとも、この場は『ありがとう』と言って頂戴しなさい」とアドバイスしてくれました。
 
親に要らないものを押しつけられるといえば、とある若き軍人Aが父Tからジャンクな回路を託される名シーンを連想せざるをえません。

技術士官でもある父Tは力説します。その回路をAが操縦する人型兵器に取り付ければ、戦闘力が数倍に跳ね上がるのだと。でも、そんなわけない年代物の回路であることを知るAは、父Tが酸素欠乏症で頭がおかしくなったと悟るのでした。

やむをえずその回路を受け取ったA。父Tの家からの帰路、さまざまな感情に心かき乱され、その回路を路上に叩きつけて走り去ります。「仮に捨てることになろうとも」を実践したA。

若い頃はどちらかというとAの立場に感情移入していたのだけれども、むしろ最近は父Tの心境に寄り添い、想像するようになりました。いやはやオジサンになった。

関野克の中学生向け著書『建築のいろいろ』

建築史家・関野克(1909-2001)は数えるほどの著書しか残していませんが、そのうちの一冊が『建築のいろいろ』(1951)。中学生向けに建築とは何かがわかりやすく書かれた良書です(※1)。

関野は「日本住宅建設の源流と都城住宅の成立」で博士号を取得し、建築史や文化財保存の分野で多大な功績をなした学者。この『建築のいろいろ』は筑摩書房から全部で100冊も出版された中学生全集の43冊目にあたります(図1)。

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図1 関野克『建築のいろいろ』

お話は中学3年生の正雄くんと中学1年生の明子さんという兄妹に叔父の建築士がやさしく語りかけるという設定です。ちょうど出版の前年に建築士法が成立したこともあって、建築士を周知する意味もあったのだそう。ちなみに正雄君たちの父親は医師。建築士が医師や弁護士にならぶ職能であることを印象付けています。

建築士の叔父さんは日本や西洋の建築史を甥たちにやさしく語りかけていきます。そしてさらに現代建築が取り組む問題について語ります。この叔父さんと甥たちの対話を挟むように、叔父さんは「はじめに」と「むすび」では読者に直接語りかけます。

「はじめに」では本書の意図が次のように語られます。

建築がどんなぐあいに発展してきたかという歴史の勉強をした後で、こんどは現在、わたしたちが疑問に思う建築のいろいろな問題のなかから、代表的なものについて、一つ一つ話し合った会話を集めたものです。

関野克『建築のいろいろ』筑摩書房、1951

鍵になるのは2つ。それは「話し合い」と「発展」。

「話し合い」は戦後民主主義が刻印されています。そして「発展」には建築史家・関野克の史観が大いに関係しています。現代の建築課題は、過去からの「発展」に沿って理解されるという姿勢。

そもそも歴史を「変遷」でも「発達」でもなく、わざわざ「発展」の過程として捉える姿勢自体がなんともG・ギーディオンばりのモダニズムな香りがします。

古い家の中に新しい建築を

そんな『建築のいろいろ』の「むすび」には不思議なタイトルが付けられています。それは「古い家の中に新しい建築を」。そのことについて関野は次のように説明しています。

国民の生活の上で、今日の問題としては、なんといっても『住宅』以上のものはありません。それは、もはや過去のものを惰性的にうけついでいくにとどめるべきではなく、みずから新しい建設の一歩を進めるべきであります。それには、どうしても『近代』の正しい理解が必要です。(中略)前半では建築の歴史について日本と西洋とを、それぞれ等分にとりあつかい、古いものの中に、新しいものの発展を理解できるように考えてみました。

関野克『建築のいろいろ』筑摩書房、1951

この「古いものの中に、新しいものの発展を」とか「古い家の中に新しい建築を」という関野の姿勢は、彼が戦争の真っ只中に執筆した『日本住宅小史』(相模書房、1942)とも呼応するもの。

『日本住宅小史』の最終章には次のように書かれています。

文化の中心に於けるその時代の住宅の理想は単に前時代の形骸的継承にあるばかりでなく外国文化の影響を今考えないとしても、その発展の原動力は常に底流に深く淵源していることを洞察すべきである。(中略)次ぎの時代の真の様式は斯くの如く正統の上に立って而も古い始源の伝統を新しい精神により生かすことによってその発展が期待され得るのである。

関野克『日本住宅小史』相模書房、1942

『日本住宅小史』は我が国ではじめて住宅の歴史を通史としてまとめ、かつ、それを「発展」という概念でモデル化した本といわれます(図2)。

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図2 日本住宅発展模型図(『日本住宅小史』所収)

住宅は各時代の状況を反映しながら段々と発展している。でも、「社会の上層に於ける住宅は各時代に於て、より完全なものとして表面上一連の流れを形成しているが、その根源は底流に深く連絡されていることを忘れてはならない」と関野は言います。「発展の原動力は常に底流に深く淵源している」のだと。

日本の住宅史において「底流に深く淵源」しているのは「上古の時代からの農本住宅」なのだという関野。支配階級の建築様式史だった旧来の建築史に対して、関野の住宅史は庶民が住まう農家を「始原の伝統」に位置づけます。

その「発展」の延長線上に、四民平等となった人々が住まう「国民住宅」を模索するのが関野の意図でした。1942年という出版年を考えると、この主張は、当時積極的な議論がなされていた「国民住宅」を建築史学の立場から「職域奉公」したように見えなくもありません。

でも、関野の言葉を丹念に読んでいくと、そこで言う関野にとっての「国民住宅」は、当時議論されていた国策的住宅よりも広い意味合いで使われていることに気づきます。

実際、関野は戦後になって、『日本住宅小史』を改訂するにあたっても、おおよその骨子、住宅発展の先に「国民住宅」を位置づける構成を変更することはありませんでした。戦時の課題が戦後へと受け継がれているわけです。

明るく正しい信念

さて、中学生へ向けて関野は『建築のいろいろ』を次のように締めくくりました。

建築が人間の真の発展に役立つものであり、文明なり文化なり―平和と呼んでもよいでしょう―を、建築によって自分のものにすることができるという明るく正しい信念を、みなさんが、この本を読んでくみとって下されば、私の一ばん喜びとするところです。

関野克『建築のいろいろ』筑摩書房、1951

明るく正しい信念。

戦争という大きな悲劇を経た日本にあって、関野はこれからの日本を担う中学生たちにメッセージを託します。実は関野は戦争で二人の姪を亡くしています。中学三年生と一年生の。正雄くんと明子さんに、その亡くなったふたりの姪を投影しつつ、関野はこの本を書いたのです。

建築士の叔父に仮託して関野が語るこれからの建築像は、ル・コルビュジエに象徴されるモダニズム建築、不燃耐火の鉄筋コンクリート住宅でした。『建築のいろいろ』の表紙(図3)には、ル・コルビュジエの「ヴァイセンホフ・ジードルンク」が描かれています(※2)。

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図3 『建築のいろいろ』表紙に描かれたモダニズム建築

さてそれから半世紀を経て、関野の託した未来建築の「回路」は私たちにどんな豊かさをもたらしたのでしょうか。

どうもわたしたちは託された「回路」の接続方法を間違い、「明るく正しい信念」や「底流に深く淵源」する「始原の伝統」を見失ったのかもしれません。いやまて、その「回路」がそもそもジャンクだったのか。それとももらってすぐ路上に叩きつけていたのか。

自問を繰り返しながらも、否応なく次の世代に何かを託す時がきます。そこでどんな回路を託すのか。その回路はジャンクではないのか。Aの「母さんに会ったよ」という言葉もそっちのけに「急げ、お前だって軍人になったんだろうが」などとまくしたてたりしてしまわないか。

まあでも、そんな失態すら折り込み済みの行為が、何かを託し、何かを伝えるということなのだろうし、託した回路が路上に叩きつけられることも、これまた如何ともしがたいものかもしれません。

そして、そんなままにならない部分にも(にこそ?)、何かを残したり、伝えたり、新たにつくったりすることの喜びと楽しみがあるのだとも思います。

(おわり)

※1 『建築のいろいろ』のさいごには、「この本を書き上げるについて、明治大学助教授・神代雄一郎君の多大の協力を得ました。(中略)同君の援助がなければ、この本はでき上がらなかったかも知れません」と書かれています。
※2 ちなみに『建築のいろいろ』表紙はル・コルビュジエ「ヴァイセンホフ・ジードルンク」だけれど、『日本住宅小史』は袈裟襷文銅鐸に描かれた高床家屋というなかなか乙な対比となってます。

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