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欲しいのは「床の間」|戦後社会に生きる庶民が求めた住まい

サンドウィッチマンのコント「建築士」は、富澤演じる建築士のチクシ・ケンが「マイネーム・イズ・ケン・チクシ」だけで延々引っ張るコント冒頭が圧巻。ふたりの家づくりをめぐるやりとりは、よく作りこまれていて驚きます。見逃せないのが、クライアント役の伊達が口にする次のセリフ。

やっぱりさあ、こうやって家建てるっていうのはさあ、城を築くみたいなもんじゃない。男としての一世一代の仕事みたいな。すげぇいま興奮してるんですよ。ハハハ。

「城を築く」だとか「男としての一世一代の仕事」だといった伊達の言葉に、富澤のキメ台詞「ちょっと何言ってるかわかんない」が繰り出されます。言うまでもなく、観客にとって「何言ってるか」が十分にわかるからこそ、このキメ台詞の破壊力が高まる。

とはいえ、この「城を築く」という行為は、本来なら武家の習いです。庶民とは縁遠く思える「武家の例え」には、自分よりも上の階層の生活様式を自分たちも実践したいという願いが込められていそうです。「家」の格を上げる「男としての一世一代の仕事」が「家づくり」だということ。


耳を疑う博太郎

終戦直後、建築史家・太田博太郎(1912-2007年)は、建築学会の仕事で炭鉱労働者向けの住宅のあり方を検討することになりました。当時、傾斜生産方式に則り、エネルギー源としての石炭を大増産することは国挙げての最優先事業でした。労働者を確保するために、炭鉱労働者住宅の改善も求められたのでした。

そこで太田は30年以上経っても忘れられないある体験をします。

どのような住宅を建てればいいのか。日本建築学会にその対策委員会ができ、炭鉱の労働組合の人々の意見も聞いた。そこで出てきた要求は「床の間のある家を」ということであった。この話を聞いたとき、私は一瞬わが耳を疑った。
(太田博太郎『床の間』1978、pp.191-192)

てっきり「台所を改善して」とか「家をもっと広く」といった要望が出るものと思っていたら、なんと床の間が欲しいという。床の間をつけたところで、さして「住宅の質」が上がるわけじゃなかろう。ではなぜか。彼らが言う「床の間が欲しい」の意味はつまりこういうことでした。

炭鉱では、職員住宅と工員住宅とがあり、職員住宅には床の間があるが、工員住宅にはそれがない。「床の間がある家を」というのは、「職員住宅と同じような家を」という意味であった。
(太田博太郎『床の間』1987、p.192)

住宅に対する要望は、字面のままに受け取るのではわからない。「床の間が欲しい」という要望には「格式」の問題が横たわっていたのでした。「格式」のために「床の間」を欲する。その思いもよらなかった庶民の気持ちを太田は知ったのでした。

そんな太田博太郎は、著書『床の間』の「はじめに」にて「床の間無用論」が大正年間の住宅改良運動が盛んだったころに提唱されたと指摘しています。住宅の機能的な側面を重視し、機能的でないものは切り捨てる。その槍玉にあがったのが「床の間」でした。一方で無用論者に対する反論も、生活に潤いを与えるとか「無用の用」とかいったほわッとした擁護しかできない。そもそも無用論だって確たる根拠があるわけでなく、両陣営ともほわッとしたまま時が過ぎたのでした(pp.1-2)。

論争どこ吹く風と、それ以後も「床の間」は継続していきます。そんな「床の間」を消し去ったのは、住宅改良運動による啓蒙ではなく、戦争による生活水準の切り詰めでした。

戦後になって、建築家・浜口ミホ(1915-1988年)が「床の間」をあらため批判することになりました。今回は「床の間無用論」ではなく「床の間追放論」として。後に『日本住宅の封建性』(1949年)に収録されるその論考にて、浜口は床の間発生の歴史をたどりながら、それが二つの潮流、格式的性格をもつ「上段」と、機能的性格を持つ「押板」の合流によってもたらされたものだと指摘します。

封建性の克服については、きわめてラディカルなはずの合理主義的な建築家までもが、床の間をその藝術鑑賞に役立つという面で採りあげ、したがって結果としては、格式的性格、封建性の残存を許すということになってしまっている。
(浜口ミホ『日本住宅の封建性』1949、pp.125-126)

封建性をまとった格式的性格を排し、家族にとって有意義な藝術鑑賞の機能を家族団欒の場で実現したい。そういえば、太田博太郎も「床の間」の意義をこう語っています。

都市が鉄とコンクリートとガラスで固められてゆくとき、自然は遠くなるばかりである。現在、小さくても一戸建ての家が要求されるのは、どんなに小さくても庭を持ち、自然とのつながりを保ちたいという人間として当然の要求によるものだろう。そのような状況にある現在、畳一畳の広さはなくても、絵を鑑賞し、花を活ける場所が住宅内に当然要求されてくる。
(太田博太郎『床の間』1987、p.192)

ただ、この「格式」なるものの厄介さはなかなかのもの。「機能」を尊び「格式」を乗り越えようとした浜口ミホは、「格式」のしぶとさを思い知るある体験をするのです。

浜口ミホの思い、農民Yさんの願い

1945年8月、建築家・浜口ミホとその夫・浜口隆一(1916-1995年)は、東京都が募集していた戦時緊急開拓団に参加し、北海道へ向かいました。ただ、北海道へ到着すると開拓団の謳い文句とは全くことなる過酷な状況が待っていたといいます。結局、夫妻は農地の開墾はせず、ソ連の進駐を恐れながら、東京の復興を待つ日々を送ります。このあたりの経緯は、北川圭子『ダイニング・キッチンはこうして誕生した』(2002年)に詳しいです。

後に戦後住宅史の記念碑的著作となる浜口ミホの『日本住宅の封建性』(1949年)には、北海道で暮らした体験をもとに、住宅改良へと目覚めるエピソード「農村住宅の封建性:住生活水準の研究」が収録されています。

それはこんなお話。浜口ミホと親しくしていた北海道石狩郡T村のYさんは、村のはずれに土地を借りている若い農家でした。貧しくて小さいYさんの家を見て、浜口は建築家の視点からいろいろとアドバイスします。ただ、Yさんの要望は浜口の考えとはなかなか一致しません。Y氏の要望する改善案とはどんなものだったのか。浜口はこう指摘します。

Y氏の住宅における第一プラン(現状)から、第二プラン(要望)への推移による住生活水準の上昇は―それを内部に立ちいって分析してみれば―家族の生活的機能な要求の満足という面においてでなく、もっぱらY氏の家の格式的要請という面において現れているのだということがわかる。つまりそれは格式的生活水準の上昇であって、機能的生活水準の上昇ではない
(浜口ミホ『日本住宅の封建性』1949、p.54)

浜口自身、Y氏にとっては家が立派になることが喜ばしいのは理解できる。とはいえ「建築家としての私の立場からすれば、深く考うべき問題がここに潜んでいる」と判断せざるをえない案件でした。農民にとっては「自己の属する『家』を農村社会において、より高くたかめるということが何よりの願いであり、それはまた農村社会において最も賞賛されるべきこととされてきた」。そうした農村社会の「願い」は、言うまでもなく浜口が考える機能主義的な住宅と真逆のものです。

機能的住生活水準=一人の人間当りの住生活的価値の大きさ。格式的生活水準=一つの「家」当りの住生活的価値の大きさということができるであろう。一方は分母が「人間」であり、他方は分母が「家」である。(中略)農村社会の通念にしたがえば家族の人間的な生活の幸福の向上をはかることよりも前に―というよりもむしろそれを犠牲にしても、-「家」の格式的向上をはからねばならないのである。
(浜口ミホ『日本住宅の封建性』1949、p.60)

農村社会における格式的向上を端的に示す住宅像とは「地主の家」でした。「農民はすべて心の中で地主のような生活、地主のような住宅をもちたいと思ってきた」(p.66)と。地主の家には「エンガワ」がまわっている。「エンガワ」は元来、武士の住宅に付けるもので、封建時代にあっては普通の農民にはつけることが許されなかったものだったそう。農民は地主のような住宅をもちたいと思い、地主は武士のような住宅をもちたいと願った。

浜口はYさんに、農地解放が成ったいま、新しい家族制度のもとで、「家」の格式ではなく、家族の「人間」としての生活を豊かに高め、農家としての生産性を高める機能的な住宅にしようと熱心に説得を試みました。

一通り話を聞いたY氏は申し訳なさそうにこう言います。

…理論としてはそれはよくわかる。しかし自分のまわりの人々、父母、親類、部落の人々のことを考えるとそう急に皆とちがう住宅をつくるわけにもゆかないと答えた。
(浜口ミホ『日本住宅の封建性』1949、p.70)

戦後社会に生きる庶民にとって、家を持つことも、そのつくり様も自由にできるはずだと信じ、熱心に説得してきた浜口を一気に脱力させる返答。農村住宅改善の道のりが長く険しいことを痛感した瞬間でした。

前川國男のブレイクスルー

浜口ミホが北海道へと渡る前、彼女は建築家・前川國男(1905-1986年)が主宰する前川國男建築設計事務所の所員として働いていました。浜口ミホが農民Yさんの住宅改善に思い悩んでいた頃、前川は戦後の深刻な住宅不足を克服する一手として、木質パネルによる組立住宅「プレモス」の建設プロジェクトを展開していました。

組立住宅というのは、つまり組立式方法によって住宅をつくることであって、住宅の各部分―壁・床・天井・屋根・建具等―を予め工場ですべて生産しておき、これを敷地現場に運んで、組立てて完全な住宅とするものである。したがってそれは工場生産住宅ともいわれる。
(前川國男「100万人の住宅プレモス」)

戦後復興期の日本社会が直面する深刻な住宅難。それを解決する組立住宅「プレモス」。「合理的な、よい住宅がより安く、より早く、より大量に生産され、供給される」という建築家・前川國男の構想は、戦火によって焼き出された庶民たちの住まいの復興が眼差されています。めざせ、「100万人の住宅プレモス」(図1)。

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図1 100万人のプレモス(『明日の住宅』1948年、p.2)

実は、前川の構想は、プレモスを「100万人」の住まいにするためのブレークスルーが込められたものでした。それは「皇族方の集合住宅としてのプレモス」。白金御料地跡にプレモス5棟とクラブハウスが並ぶ計画。配置されたプレモスにはそれぞれ左から順に、皇太后、天皇私邸が。倶楽部、テニスコートをはさんで、その下へ秩父宮邸、高松宮邸、三笠宮邸が続いています。そもそも前川は、なぜプレモスに皇族が住まう計画を構想したのでしょうか。前川はこう言います。

およそ社会の生活様式というものには、その社会の最高の階層の人々のもっている生活様式がお手本になって、順次に階層の下るに応じつつ、多くの人々によって何らかの形で、それが模倣されていくという傾向がある。(中略)したがって国民の『憧れの的』として最高の位置にあられる陛下や皇族の方々の生活様式は国民全般の生活様式に対して、実は深い関係があるのである。
(前川國男「100万人の住宅プレモス」)

「100万人の住宅プレモス」で提案されているのは、「皇族方の集合住宅案」のほか「市民小住宅」や「労働者集合住宅」に及びます。特に労働者向けのそれは、建ち並ぶプレモス群の中央に、託児所、クラブ、図書室、さらに共同炊事場も設けられました。「家事が共同化され、社会化」されることで「団結と組織による近代社会の新しい力」が育まれるというのです。

戦後社会にふさわしい生活を実現する庶民住宅「プレモス」。そのムーブメントを牽引するのが「皇族方の集合住宅案」なのでした。所員であった浜口ミホが北海道で直面した「農民は地主のような住宅をもちたいと思い、地主は武士のような住宅をもちたい」という「願い」をむしろ逆手にとった前川國男のブレークスルー。それが「100万人の住宅プレモス」なのでした。

ただ、私たちも知るように「皇族方」はプレモスに住むことはありませんでした。プレモスは一部の先進的な考えをもった人々の住まいになったほか(浜口夫妻もプレモスを自邸としました)、あとはもっぱら炭鉱住宅として建設されることになります。ただ、炭鉱労働者が住まうことになったプレモスには、そこに住んだ労働者たちが欲したであろう「床の間」はありませんでした。

「商品化」という格式のはじまり

大正年間の住宅改良運動で唱えられた「床の間無用論」ですが、そもそも庶民の住まいにまで「床の間」が浸透したのはいつ頃なのか。建築家・上田篤(1930年-)は、著書『日本人とすまい』のなかでこう指摘しています。

明治維新をむかえたとき、とつぜん、庶民のすまいにおける接客空間の一大転回が進行した。どこの家でも、お屋敷をまねて、座敷や応接間をせっせともうけ、あるいはもうけることを理想とするようになったのである。その座敷には、銘木をあしらった床柱や床框、付け書院に違い棚というデンとしたつくりに、明治天皇像や天照皇大神宮の軸がかけられ、また一方では、そこにさまざまな置物や生花などがならべられた。
(上田篤『日本人とすまい』1974、p.81)

皆やはり「お屋敷」みたいな家にしたかった。それゆえに「床の間」は欲望された。住宅改良運動でも駆逐されなかった「床の間」を戦争が襲います。あらゆる資源が戦時体制へ動員されるなか、庶民の住宅基準もどんどん切り詰められていったからです。

たとえば、大阪府・大阪市・大政翼賛会大阪府支部、そして代用品協会大阪支部の計4団体が主催した「戦時生活用品規正展覧会」(1943年)では、次のような「戦時『住まい方』心得」が掲げられました。

 一、神棚、仏壇を正しく祀る事
 二、部屋の使いみちを明確にする事
 三、整理、整頓、清掃に努める事
 四、家具は配置を適正に、使いよい物を数少なく持つ事
 五、遊んでいる空間を充分利用する事
 六、防空、待避の備えを怠らぬ事
 七、家庭工作を心懸けて、なるべく自製、修繕に努める事
 八、簡素美と床しい嗜みを忘れぬ事 

もはや「床の間」が入り込む余地はなし。ただし「神棚、仏壇」は設ける。戦後、浜口ミホが「床の間追放論」を提唱しましたが、そこに込められた理念如何を問わず、そもそもわずかな広さしか確保できない応急住宅や復興住宅に「床の間」は設けられない。封建性のただよう「玄関」という語句を止めようという主張もまた、意に反して「玄関すら設けられない」状況の追認になってしまいます。「設けない」という積極的判断ではなく「設けられない」というなし崩し的展開によって「床の間追放」は成し遂げられた。それゆえ「床の間」はしばらくすると庶民の住まいに戻ってきます。

高度成長期に入ると、空前の住宅ブームへ。狭い公団住宅から、気持ち少し広くなった郊外戸建て住宅へと「格式」を向上させることがサラリーマン士族の甲斐性を示すものとなり、妻は内助の功でそれを支えることに。持ち家促進としての住宅金融公庫がスタートしたとき、すでにサラリーマンを支える妻は「山内一豊夫人」になぞらえられていました。

住宅難に心から苦しんでいるのは婦人達で、同時に又住宅を建てようと思い、その目的を果たそうと最も熱意のあるのも婦人達だと信じています。一家の財政を切り盛りして、山内一豊夫人の例を引くまでもなく、何とか建築費の財源を生み出してゆくのは、主婦の努力に俟つところが大きい。住宅問題も結局、婦人問題だと思います。
村川謙雄『公庫住宅の話』、1950

さらに「格式」は思わぬかたちで復活することになります。

冒頭紹介した太田博太郎の著書『床の間』は、岩波市民講座での講演内容をベースに内容を補足して岩波新書にまとめたもの。その市民講座が開催された1976年に大手ハウスメーカー・ミサワホームが、ハウスメーカー住宅史のエポックともいえる商品住宅「ミサワホームO型」を販売開始、予想以上のヒット商品となりました。

住宅の「工業化」が一定の成熟を遂げ、商品としての識別性を高めることへ注力していく「商品化」へと舵を切った節目に位置する「ミサワホームO型」。その「商品化」のコアを形成したのが「城」のような外観であり、家の中心を象徴する「大黒柱」でした。駆逐されるはずだった「格式」が現代的に翻案された上で大々的に復権したのです。

そこでは「自分のまわりの人々、父母、親類、部落の人々のことを考えるとそう急に皆とちがう住宅をつくるわけにもゆかない」という思いも満たされつつ、でも、他者との差異も適度にもたらされることになります。

やっぱりさあ、こうやって家建てるっていうのはさあ、城を築くみたいなもんじゃない。男としての一世一代の仕事みたいな。すげぇいま興奮してるんですよ。ハハハ。

家づくりに期待を膨らませる庶民の願いに「ミサワホームO型」はド直球で答えた。農民は地主のような住宅を、地主は武士のような住宅を、それぞれに持つことを願った。「格式」をめぐる「願い」を土壌に、戦後、庶民がはじめて手にした持ち家社会は、よくもわるくも花咲き誇ったのでした。

参考・引用文献
・主婦の友社編『明日の住宅』、主婦の友社、1948年
・浜口ミホ『日本住宅の封建性』、相模書房、1949年
・村川謙雄『公庫住宅の話:住宅金融公庫の手引き』、新建築社、1950年
・上田篤『日本人のすまい』、岩波書店、1974年
・太田博太郎『床の間:日本住宅の象徴』、岩波書店、1978年
・北川圭子『ダイニング・キッチンはこうして誕生した:女性建築家第一号・浜口ミホが目指したもの』、技報堂出版、2002年

(おわり)

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