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読み直す勤労|大藪春彦『唇に微笑 心に拳銃』とプレハブ住宅営業の時代

日本におけるハードボイルド小説の第一人者・大藪春彦(1935-1996)の長編小説『唇に微笑 心に拳銃』(徳間書店、1970)に登場する主人公・若林誠は住宅営業マン。表の顔は、鉄骨系プレハブ住宅メーカー「東洋ニュー・ハウス」で働く営業マンだけれども…という設定です。

東洋ニュー・ハウスは、鉄と非鉄金属の両方を作っている東洋全金属の子会社だ。プレハブ住宅、すなわち東洋全金属の工場で作った建物の各部を住宅現場に運んで組み立てれば建ちあがるプレ・ファブリケーティッド・ハウスを売っているのが東洋ニュー・ハウスだ。
(唇に微笑 心に拳銃、p.26)

作中、あの手この手で展開される暴力とエロの合間に登場する「東洋ニュー・ハウス」のお話が、それ以外の非日常な物語とは打って変わって俗世間にまみれていてストーリー展開上の潤滑油にもなっています。個人的な興味としては、取材がなされたであろう1960年代後半にプレハブ住宅が人々にどう認知されていたかがうかがえる描写が多々登場するところ。

プレハブ住宅への根強い偏見

たとえば、若林が販売する住宅商品について、こんな描写がでてきます。

プレハブというと、工事現場の飯場の建物のような粗末なものを想像しがちだが、個人住宅用のやつは見てくれがいい。特に内部は洒落ている。
(唇に微笑 心に拳銃、p.28)

プレハブは「工事現場の飯場の建物」みたいに粗末だという認識。プレハブという言葉からイメージされる誤解。それゆえ、こんな話題も登場します。

プレハブ住宅を売るのは難しい。行き当たりばったりの飛び込みでは非常に能率が悪い。金持ちそうな家で口説こうとすると、別荘用は別にして、馬鹿にするな、と怒鳴られ、アパートの住人に売り込もうとすると、土地も無いのにどこに建てるのだ、と門前払いをくらわされる。
(唇に微笑 心に拳銃、p.29)

「金持ちそうな家」では「別荘用は別にして」、本宅の新築をプレハブ住宅で行うようセールスすることは「馬鹿」にしていることだったということ。このあたりの問題を、たとえば業界大手・大和ハウス工業は社史(1975)のなかでこう振り返っています。

42年以降プレハブ住宅が本格的な成長期に入ったといっても、それは決して平坦な道ではなかった。広く知られているように、このころ一般大衆には、プレハブ住宅についてのかなりな偏見が行き渡っており、プレハブ住宅の普及を阻害していた。
(大和ハウス工業二十年史、p.167)

その偏見とは「プレハブ」が持つ画一的・安普請といった負のイメージのこと。

そのような偏見が定着した理由はいろいろであろうが、いつも「ミゼットハウス」「応急仮設住宅」「移動教室」などの仮設プレハブが、プレハブ住宅と混同されて語られたことに大きな原因があったといわれている。そのうえ非常に厄介なことには、「ミゼットハウス」といい「応急仮設住宅」といい「移動教室」といったところで、「プレハブ建築」であることに違いはなかったということである。
(大和ハウス工業二十年史、p.167)

大和ハウス工業の躍進を支えた商品群が、その後の同社の成長を阻害するという皮肉な展開がここにはあります。

「プレハブ」とは建物そのものではなく、工法を指すものであるにもかかわらず、そんな難しい話は一般大衆には通じない。それゆえ、偏見をとりのぞくのは困難を極めたといいます。

プレハブ住宅のセールストーク

作中、「…工期は普通の半分で、大工たちの茶菓に心をわずらわせる必要はございません」といったセールストークも登場します。

プレハブ住宅が普及しはじめた1960年代半ば、『週刊朝日』に掲載された記事「プレハブ住宅は得か損か」(1965年10月22日号)でも「ふつうの建築じゃ二月以上かかるし、大工さんの手間賃は高いし、お茶やおやつだって大変」とあったりします。

地方から都会に出てきて、そこで結婚し家族をもった人々にとって、新築時の「大工たちの茶菓に心をわずらわせる必要」がないのは大いに魅力的だったことでしょう。核家族は姑からも旧習からも解放されたのです。それゆえ、大工に気を遣う必要がないことがプレハブ住宅の主要なアピールポイントになったことがうかがえます。

さらにこのセールストークはこう続きます。

…それに普通の家をお建てになるときには、建築費だけでなくて設計料や付帯設備費などが二割も余計にかかるものですが、その点わたくしたちの東洋ニュー・ハウスは、お家が建ち次第、すぐにその場でお住いになるのに必要な、光熱、厨房、風呂、照明、配線、換気、給湯…などが一さい定価に含まれておりますので…。
(唇に微笑 心に拳銃、pp.32-33)

でも実際はなんだかんだと二割ほど価格は上乗せになる。この若林のセールストークが登場する5頁前にはこんなくだりがあります。

室内照明具は定価に含まれているが、屋外の給排水や屋内外のガス工事、それに屋外配線工事や浄化槽の工事費などは定価に含まれてない。
それにもってきて、各モデルで満足する客はほとんどいないから、追加変更工事費で定価の二割や三割高にはすぐにふくれあがる。
そこを、定価のほかにほとんど金がかからないように客に錯覚させて契約にこぎつけるのがセールスマンの腕なのだ。
(唇に微笑 心に拳銃、p.28)

営業マンが言葉巧みに、というかウソを交えつつ契約させ、「あとで客とトラブルが起こっても会社で責任をとるから、ともかく一件でも多く契約を取ってこい」と課長はハッパをかけます。実際、契約までは営業マンが窓口になり、契約後はそうでなくなるというスタイルが数々のトラブルを生んだといいます。

社会問題化する販売手法

プレハブ住宅の成長期は、消費者意識が高まった時代とも重なっていました。それゆえ、こうした商法も1970年代以降、消費者問題へ発展していきました。

大きく社会問題化したのは、『唇に微笑 心に拳銃』発刊の翌1971年。「日本消費者連盟設立委員会」(1974年から「日本消費者連盟」)による大和ハウス工業の告発です。分譲住宅地「南青梅ネオポリス」や住宅商品「ダイワハウス柳生」の販売手法が問題視され、同社の株価が大暴落しました。

「ダイワハウス柳生」の問題とは「プレハブ住宅の不当表示」として告発されたもの。日本消費者連盟編『消費者パワー:不正企業を告発する』(三一書房、1972)には「おとり広告用の新発売プレハブ『柳生』も告発」と題して、告発文が転載されています。

同社が販売しているプレハブ住宅「ダイワハウス柳生」は、その広告宣伝文によれば、(1)「三・三平方メートル当たり九・五万円~一〇・五万円」と一般プレハブ住宅に比べ、低廉であるように印象づけているが、消費者が現実に見積りを取ると、同社が販売しうるものとして示すモデル設計一〇種類は、標準単価で最高一三万円(一例)、一二万円台が二例、一一万円台五例、一〇万円台二例で、一〇・五万円はわずかに一例だけとなっており、九・五万円のものは見積りを示さない。
(消費者パワー、pp.16-17)

などなど、上記のほか9つにおよぶ不当表示の証拠を示していて、しかも掲載された同書の表紙には、告発対象である大和ハウス工業のチラシが載っている徹底ぶり。この告発を、大和ハウス工業の社史はこう振り返ります。

これ(「ダイワハウス柳生」の告発問題のこと)は日本消費者連盟設立準備委員会〈代表委員竹内直一氏〉が、「柳生」の広告を不当として告発してきたものである。この程度の広告は不動産業界では割合無意識的に行われておったところであるが、今日まで常にプレハブ住宅の先発メーカーとして歩んできた当社には、非常に大きな社会的責任を痛感させた。そして、教育制度、アフターサービス、顧客への情報の提供といった、いわゆる質的サービスシステムの強化の必要性が顕在化した。
(大和ハウス工業二十年史、p.234)

業界大手を襲った告発劇は、プレハブ住宅業界のおける「質的サービスシステムの強化」をもたらすことになりました。この他にも台風で屋根が飛んだなどなどの事故が「欠陥プレハブ」として社会問題化します。そうした当時の状況を住宅評論家・佐藤泰徳はこう表現しています。

現代の住宅が生活水準の高度化によって、盛り込む内容が複雑になったこともその原因の一つだが、もっと大きな理由は、住宅建築の急激な増大に技術者や建築技術労務者の供給が対応できず、家づくりに十分な訓練と経験のない建築士や建築技能労務者によって、かなりの量の住宅建築が消化されていることによるものだという事実は見逃せない。
(住宅の条件、p.268)

プレハブ住宅は数々の失敗と改善を経ながら今に至るのです。『唇に微笑 心に拳銃』は、そうしたプレハブ住宅業界の大転換前を描いた作品でもあるのです。

モーレツ住宅営業の世界

営業課長・犬飼が無謀な営業目標を掲げ、その実現のために「日曜も出社して、屋上で座禅を組む」話も登場します。

「君たちの潜在能力を呼びさまし、セールス根性をみずから盛りあがらせるためだ。やる気を起こさせるためには催眠術が一番いい。君たちは能力がありながら、せっかくの能力を充分に発揮していないんだからな。こっちが自信を持って売りこめば、客は必ず買ってくれる。商品の良し悪しなんて関係ない」
(唇に微笑 心に拳銃、p.97)

そして「俺はやるぞ!」「三百六十五日、二十四時間勤務を心に念じろ!」「バイタリティのある男になろう!」と皆で唱和するのです。

丸善石油(後のコスモ石油)のCMで「モーレツ」が流行語になったのが1968年。『唇に微笑 心に拳銃』に登場する住宅営業マンたちは、いわゆる「モーレツ社員」として、技術が介在しない「セールス」を精神論で乗り切っていったのでした。それは、精神論で乗り切れるほどの住宅需要と住宅産業の供給力不足に支えられて、幸か不幸か成立しえた営業手法でもありました。

主人公・若林誠の「裏の顔」が描かれるハードボイルドな展開。その合間にはさまれる、裏とは真逆の「表の顔」の居場所=東洋ニュー・ハウスの会社風景。あえて「表の顔」にプレハブ住宅営業を選んだ大藪の意図はなんだったのでしょうか。

ハードボイルド小説の新進作家として大藪春彦がデビューしたのは1958年。翌1959年には『街が眠る時』『野獣死すべし』などの映画化が契機となって、一躍人気作家となりました。この1959年という年は、大和ハウス工業が住宅メーカーとしての第一歩を踏み出すこととなるヒット商品「ミゼットハウス」が販売開始されたことでも知られます。以降、ヒット作とトラブルにたびたび見舞われながらもその地位を盤石としていく様は、プレハブ住宅の歩みとそっくり。

プレハブ住宅メーカー乱立がつづく1962年、積水ハウスが後に同社のスタンダードとなる2階建てプレハブ住宅「セキスイハウス2B型」を販売します。そんな1962年に、大藪は代表作『蘇る金狼』の連載をスタートさせ、連載終了の1964年に単行本を刊行しました。同書は1979年には松田優作主演で映画化され有名になったのは言うまでもありません。

作品に登場する主人公が「表の顔」はサラリーマンを演じつつ、その裏で激しい暴力を辞さない野望を抱くのが常なのは、大藪自身が敗戦前後の中国大陸を生き、敗戦直後におきた現地人からの報復行為を目の当たりにし、命からがら日本に帰ることができた引き揚げ体験にあるのかもしれません。

ちなみに、主人公・若林誠は作中で29歳という設定です。刊行された1970年が物語の舞台でもあるとすると、若林が生まれたのは日米開戦の1941年ということになります。東洋ニュー・ハウスの幹部は大正生まれのひとびと。昭和生まれの若手たちが「モーレツ社員」として奮闘するプレハブ住宅営業の最前線が、『唇に微笑 心に拳銃』の舞台でした。

夜討ち朝駆け当たり前。休日も催眠術を受けるために出社。「三百六十五日、二十四時間勤務を心に念じろ!」が比喩ではない。時代の刻印を受けたその働き方は、徐々に変化し、チーム営業やWebシミュレーションなどなどを活用した働き方改革の改革対象となって今に至ります。

そんないまだからこそ、1960年代末のプレハブ住宅企業の空気感を知れる本として『唇に微笑 心に拳銃』は再読に値するのではないでしょうか。いわばそれは「読み直す勤労」。

(おわり)

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