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ミサワホーム(バック・トゥ・ザ・)フューチャーホーム2001

1987年、森高千里が歌手デビューした5月、東京・晴海で開催された国際居住博覧会にヘンタイ感あふれる趣向を凝らした住宅が出展されました。その名も「フューチャーホーム2001」(1987)。大手ハウスメーカー・ミサワホームが提案する未来型住宅でした(図1)。

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図1 フューチャーホーム2001(文献2)

この未来型住宅、なにがヘンタイ感あふれるかって言いますと、世界で初めての「回転する家」だったのです。回転する展望台やベッドは昭和のおなじみですが、この「フューチャーホーム2001」は太陽追尾システムを搭載。約半日で180°回転させることで、一日中、日照や採光・通風が確保できるのです。

フツー、そんなの開発段階のギャグ止まりですよね。それを実現してしまうのが、アイデア王・三澤千代治が率いるミサワホームの設計技術陣、そして、「三澤社長のおもちゃ箱」と揶揄されるミサワホーム総合研究所のスゴイところ。

そんな「フューチャーホーム2001」を手掛かりに、ハウスメーカーによる家づくりを観察してみましょう。

ミサワホームは必要なのか

稀代のアイデアマンであるミサワホーム創業者・三澤千代治の溢れ出るアイデアは、正負両方向にほとばしる妄想と一体のものでした。

たとえば、1986年の年末から87年元旦にかけて三澤に取り憑いた「ミサワホームは本当に必要なのか」という妄想を、古川興一『三澤千代治の創の時代』(プレジデント社、1990)が紹介しています。

ミサワホームは本当に必要なのか?

もしミサワホームがなくなったとしても、世間は別に困らないし、競合他社だってこれ幸いだろう。もしも、そうじゃないとしたら、一体どういう意味でもってそうじゃないのか???

面倒くさい話でしょう。正月休み明け早々、年頭の社長挨拶で社員一同を前に「ミサワホームはいらない」と発言します。品質もデザインも価格もサービスも、どれもオンリーワンとはいえない。本当に必要なのか?ミサワホームの社会的存在価値についての三澤の問いかけは、その後も会議のたびにネチネチと続きました。

この三澤のある意味で執拗なハラスメントが、設計部のメンバーを発憤させます。彼らは研究中のテーマを百項目あまり書き連ねたレポートにして、三澤社長に突きつけたのです。

レポートを一読した三澤。結果、彼らに下った指令は、すぐに実現すること、従来の住宅像を打ち破ること、新しい技術提案・生活提案をふんだんに盛り込むこと。とどめが、今年5月1日から開催される国際居住博覧会に出展すること。この指令が下ったのがなんと3月1日!

誕生!フューチャーホーム2001

超ハードスケジュールのなかようやく完成にこぎつけたのが「フューチャーホーム2001」なのでした。さて、その提案内容とインパクトはどんなものだったのでしょう。

ミサワホームの「フューチャーホーム2001」を出展、連日来観者が長い列を作り、会場一の話題を集めました。三角形の屋根をもつこの家は、ミサワホームが21世紀に向けての研究開発を進めている最新住宅技術のすべてを盛り込んだ3層構造の家です。人々の最大の関心の的は世界で初めての「回転する家」。最高で40分間、通常では約半日で180°回転することができます。このため太陽や風の動きに合わせ、一日中、日照や採光・通風が確保でき、高い省エネルギー効果を発揮します。
(『ミサワホーム技術開発史40years』、2007)

この「フューチャーホーム2001」はあくまで実験住宅として商品化はされませんでしたが、翌年の国際居住博覧会での「NEAT 555」、そして商品化された「NEAT INNOVATOR」(1989)へと発展していき、バブル期ミサワホームのフラッグシップモデルの位置を得ることになりました。

ちなみに、最新住宅技術が盛り込まれた3層構造の中身はと言いますと次のとおり。

3層の各階は、ミサワホームが21世紀の生活の課題としている「医・職・住」の3つのテーマで構成しました。1階は「職」をテーマとしたフリースペースとし、在宅ビジネスを可能とする空間を提案。2階は「住」をテーマに、ハイテク技術を多く取り入れた会的な暮らしを演出。(中略)「医」をテーマとした3階は(中略)家庭内の健康維持や余暇生活を楽しむ充実のスペースを提案しました。
(『ミサワホーム50年誌』、2017)

それこそ、住宅に「医」を入れ込む提案は、ここ最近の住宅展示場で実装されるようになってきた内容。先見の明が光ります。ちなみに、この未来型住宅の太陽追尾システムについての三澤の発言が秀逸です。

いざ商品化の段階では「回る家」は法的な面で難しいのではないか、との質問も出たが、三澤は「法律は固定的なものではない。技術の進歩で変わるものですよ」と涼しい顔。
(古川興一『三澤千代治の創の時代』1990)

ちょうど、雨漏りで水滴がテーブルに落ちてくると訴えるクライアントに「あなたのテーブルを動かせばいいんですよ」と言ったフランク・ロイド・ライトの武勇伝を思い出します。

馬車から自動車へ

ところで、「フューチャーホーム2001」の写真を見てみると、建物の前に自動車が駐まっていることに気づきます。しかも、その車は「デロリアン(DMC-12)」(1981)。

この車を巡るすったもんだはカルト的人気を付与しますが、伝説的な人気を決定づけたのは、なんといっても映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(1985)でタイムマシンのベースとして登場したことでしょう(図2)。

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図2 『バック・トゥ・ザ・フューチャー』

日本でも1985年末に公開。この映画はまさに「フューチャー」がキーワードであるがゆえ、未来型住宅「フューチャーホーム2001」のメインヴィジュアルとなるこの写真に、一緒に収まったのでしょう。

ただ、約30年を経た今、なんだか「デロリアン」だけが古びて見えるのは、あのル・コルビュジエの「ヴァイセンホーフ・ジードルング」前に立つ女性と車の写真を連想してしまいます(図3)。

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図3 ヴァイセンホーフ・ジードルング

ちなみに、三澤千代治自身が大の車好きだったことで知られます。そして、工業化住宅を語る際に、たびたび自動車を喩えに使っています。たとえば、「馬車から自動車へ」という話。

自動車の歴史の当初のことだが、自動車はもともと馬車を真似てつくりはじめたものである。乗り物としては馬車しかない時代だから、馬車をイメージしたのも当然のことであろう。当時の自動車のマーケティングは、いかに馬車に似た自動車をつくるかであり、馬車と同じような大きな車輪にホロをかけた。(中略)上流階級のステータスが馬車である以上、自動車は馬車に似ていなければならなかったのである。
(三澤千代治『本物志向』1992)

でも、所詮、馬車の真似物な自動車は売れない。この状況を打破したのは何か。それは「鉄の自動車に暖房をつけた人が出た」ことだったというのです。馬車は凍えて乗るしかない。でも、暖房付き自動車は馬車には真似できない快適性を提供したのだと。三澤はさらに言います。

私がいいたいのは、この「馬車から自動車へ」を「在来工法から工業化住宅へ」におきかえたいということなのだ。しかし、現実を直視すると、工業化住宅はまだ、自動車が馬車を真似たように、伝統的な木造軸組工法にいかに似せてつくるかにとどまっているように思う。馬車を自動車に移行させた暖房に当たるもの、在来工法ではとてもできないものをいかに工業化住宅に持ち込むかが課題なのだ。
(三澤千代治『本物志向』1992)

在来工法ではとてもできないもの。自動車にとっての暖房は、住宅では何になるのか。三澤千代治は必至になって探し求め続けたのでした。「プレハブ住宅の時代」を目指して。

バック・トゥ・ザ・フューチャー

「日本の住文化や伝統を大切にしながらも、時代の流れに対応した新しい性能や技術を加えたプレハブ住宅をつくり、『住宅の本物はプレハブ住宅です』を目指す」ことが三澤の夢でした(三澤千代治『一家言』1996)。

そのためにも「クルマに勝つ住宅を」と三澤は言います。

自動車メーカーは、狭い空間をいかに快適にするかに懸命に努力し、勉強している証拠であり、住宅メーカーのほうが遅れているということなのだ。乱暴な言い方をすれば、住宅は自動車に負けているということなのかもしれない。率直に言って、クルマの性能は住宅にも必要なのだと思う。そして、早くクルマを上回る居住性能を住宅が持たなければいけない。自動車メーカーが住宅を勉強しろ、住宅に追いつけ、という形にならなければいけないと思うのだ。
(三澤千代治『一家言』1996)

車好きな三澤千代治は自動車の優位性をしっかり認識し、「クルマに勝てる住宅にしなければいけない」と語りました。そんな三澤率いるミサワホームが、結果としてトヨタ自動車傘下に組み込まれ、三澤自身も会社を去るなんて「フューチャー」は予想だにしなかったでしょう。

ところで、映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』は、落ち着いて考えてみると、未来の話ではありませんでした。1985年の主人公が1955年の過去へとタイムスリップし、1955年からみた「未来」へと帰還する物語なのでした。つまり「未来」という現在(1985)を意識しつつ過去(1955)で四苦八苦する物語なのでした。

三澤千代治、そしてミサワホームは、1980年代頃から次第に、日本の住文化に関する発言を増していきます。そして、そんな日本の住文化をいかに翻案するかに注力するようになっていきます。

「フューチャーホーム2001」の翌1988年には映画『ダイ・ハード』が公開されます。あの映画は日系企業ナカトミ商事の自社ビル「ナカトミ・プラザ」が舞台。日本趣味なインテリアが印象的でした(図4)。

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図4 ダイ・ハード

アメリカで日本の住文化が注目されている。21世紀は日本の時代。たとえば「アメリカを代表する名家の当主ロックフェラー氏のように、京都の有名な大工さんが建てた日本風家屋に住む」といったことを三澤はたびたび言及しています(三澤千代治『価値を逆転すれば現代に勝てる』1985ほか)。

ジャパン・アズ・ナンバー・ワン。アメリカからも評価される日本の伝統。しかも、それはステレオタイプともいうべき「日本っぽさ」。実は1970年前後にブームとなった日本の住宅産業論が、そもそも「未来産業としての住宅産業」という未来論的側面と、「海外から注目されるユニークな日本」といった日本論的側面を背景に持つものでした。

三澤千代治はそんな「未来+日本=住宅産業」論の出自を誠実に継承しながら、ナカトミプラザ的な「アメリカ的な視点から見た日本の伝統文化」を現在のプレハブ住宅へと翻案したのでは中廊下、と思うのです。

三澤自身はきっと未来へ向けて発進したつもりだったはず。でも、実際は過去(として捉えられた虚構)を現在へ延長した旅路=伝統文化の「商品化」を追い求めていたのかもしれません。

ミサワホームから退場した後、新たに立ち上げたミサワ・インターナショナルでの取り組みが、果たして、本来旅立つはずだった「未来」への旅となっているのかどうか。どうやら『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2』(1989)同様、紆余曲折・波瀾万丈な物語となっているようです。そのあたりの話はまた改めて。

参考文献
1)高木純二『ミサワホーム 三澤千代治にみる発想・戦略・経営』、はる出版、1987
2)ミサワホーム編『ミサワホーム技術開発史【木質編】』、ミサワホーム、2007
3)ミサワホーム編『LEGACY:ミサワホーム50年誌』、ミサワホーム、2017
4)松村秀一監修『工業化住宅考:これからのプレハブ住宅』、学芸出版社、1987

(おわり)

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