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ミサワホームの破天荒を可能にした二人の男|専務・山本幸男と社長・三澤千代治

1985年8月12日 御巣鷹山

『はなしの種:住まいと生活について』という本があります。

それは、ミサワホームの社員向けに、営業トークのネタとして住宅に関するウンチクがまとめらたもので、住まいや、そこでの生活への愛あるまなざしにあふれた内容。

本の出版は1985年。著者はミサワホーム専務・山本幸男。

山本はミサワホーム創業者・三澤千代治の高校からの友人であり、ミサワホームの経営を支え、あの「蔵」を発案した人物でもあります。

三澤の片腕として将来を嘱望されたものの、不運にも大阪出張からの帰路、飛行機事故に巻き込まれ亡くなりました。

事故が起きたのは『はなしの種』が出版された年、1985年。言うまでもなく1985年の飛行機事故とは、日本航空123便墜落事故のことです。乗客乗員あわせて524名中、生存者はわずか4名という大惨事の犠牲となりました。

『はなしの種』は、てっきり山本専務の追悼企画として、彼のエッセイ集をまとめたのかと思っていました。でも、何気なく奥付を見て愕然としました。奥付にはこうあったのです。「発行 昭和60年8月12日」と。

123便が御巣鷹の尾根に墜落した日が、全くの偶然にこの本の発行日であったという不思議。

そのほかにも、事故当日の夕方、ミサワホーム本社の営業部があるフロアのみ原因不明の停電が発生したなんてドラマみたいな話があったりします。営業部は山本の管轄。しかも墜落があった時間帯の停電という不思議。

ほかにも山本が注文した仏像が自分の葬儀の前日に届いたとか、机の上がいつになく綺麗に片付けられていたとかいった「不思議」が当時、週刊誌ネタになったといいます(週刊現代、1985年9月28日号)。

そうしたエピソードが単なる偶然なのか、あるいは月刊ムー的な類いのお話なのかはさておき、本来は何の関係もないはずの事故と出版、停電といったものに関係性を見出す「呪術的思考」が召喚されるほど、山本幸男は愛された人であり、また、その突然の死が大きな悲しみと喪失感をもたらしたのでしょう。

圧倒的な喪失感

これまた同じく1985年に出版された三澤千代治の著書『価値を逆転すれば現代に勝てる』のはしがきでは、ゲラ刷り段階になって盟友・山本の訃報に接し、出版断念を決断しかけたほどの心情が吐露されるとともに「この本を謹んで山本幸男君の霊前に捧げたい」と記されています。

強い喪失感に襲われた三澤は、ミサワホーム本社内の専務室を山本の死後もそのままにしたといいます。「いつかふらっと部屋にもどってきて、『よう、実績はどうなんだい』と声をかけてくれそうな気がするから」と。

1987年に出版した著書でも三澤はたびたび山本について言及し、その突然の死を惜しんでいます。それは、山本への未練というよりも、ミサワホームを語ろうとすると、いたるところに山本の痕跡に向き合わざるをえないからでしょう。

彼のミサワホームへの功績は、はかりしれないほどである。彼はいつも憎まれ役をかってでてくれていた。(中略)私が雲の上のような構想をぶち上げると、彼はそれを地におろし、着実に事業化していってくれたのである。彼のやってきたことにくらべれば、私など好き勝手なことをやっただけだ。あらためて彼がになっていた役割の大きさ、重さがぐんとこたえてくる。
(三澤千代治『三澤千代治の情断大敵』1987)

ほかにも、細部にこだわる性格じゃないのに、きっちり細部にこだわったことや、名刺の渡し方ひとつとっても心の余裕をつくる工夫をしたりといったエピソードを紹介しています。

二人あわせて一人前

そんな山本幸男と三澤千代治とは好対照な性格だったといいます。

三澤が理工系の技術屋、山本は生家が織物問屋で文科系の商売人。三澤は気が短く、せっかちだが、山本はのんびり屋。運動もやらずに、酒も飲まない三澤に対して、運動が大好きで酒も飲む山本。三澤は新しいもの好きだが、山本は古いことを大切にする。三澤は突っ走る仕事が好きだが、山本は一つずつ固める仕事が得意といった具合だ。
(古川興一『三澤千代治の創の時代』1990)

あるいは次のようなエピソードも。

三澤にとって山本は、人生最大の親友であり、よき事業パートナーでもあった。ミサワホーム専務として、また高校時代からの親友として、経営のことから細かい仕事のことまで、山本は三澤にズバリ直言できる唯一人の男だった。三澤の妹をめとり、文字通り三澤一族の一員として親友以上の関係にもあった山本の死は、三澤にとって筆舌に尽くし難い苦しみであった。
(高木純二『ミサワホーム三澤千代治にみる発想・戦略・経営』1987)

そして、「技術志向の三澤を、商売という観点から補佐し続け、アドバイスしてきた山本は、「ミサワホームの一方の舵取り役」として業界での評価が固まっていた」といいます。そんな二人は、高校時代の教師から「おまえらは二人あわせて一人前」と揶揄されたほどのベストマッチな関係だったのです。

だからこそ、山本の突然すぎる死は、三澤千代治はもちろん、ミサワホームにも暗い影を落としたにちがいありません。「私が雲の上のような構想をぶち上げると、彼はそれを地におろし、着実に事業化していってくれた」という三澤の言葉がとても重く感じられます。

オイルショックの痛手にあえぐ1975年、三澤は札幌行きの飛行機で乱気流にもまれ、一瞬死を覚悟したといいます。「一度死んだ気になってやりなおそう!」。そう思った三澤は「死亡宣言」を社内外に発表し、会社の建て直しをしました。落ち行く飛行機のなかで山本は、そして、飛行機墜落の報を受けた三澤は、それぞれにこの「死亡宣言」のエピソードを思ったのでは中廊下と思うと、ちょっと複雑な心境になります。

バブル期の拡大経営のダメージが尾を引き、結果として三澤千代治はミサワホームから追い出されることになります。山本幸男が生きていたらそうはならなかった、との声も。

会社が最後に成功できなかったのは、山本がいなかったからだと指摘する同業者がいるらしい。それは私には分かりません。でも、そうかもしれないという気持ちはあります。
(ミサワインターナショナルHP、三澤ブログ、2007年8月7日)

三澤自身が住宅産業の時代区分を「量の時代(1960年代)」、「質の時代(1970年代)」、「味の時代(1980年代)」に分けています。それぞれの時代に、工業化で低価格を実現した「ホームコア」、オイルショック後の企画住宅ブームを牽引した「ミサワホームO型」、そしてバブル時代の「道楽」をテーマとした「NEAT」を代表的な商品と位置づけています。

卓越した気遣い師である三澤ゆえ、各時代にしっかり真剣に寄り添ったアイデアを出し、そして山本が事業として着地させてきたのでしょう。ただ、「味の時代」であるバブル期への寄り添いは、山本不在の船旅だったのです。

そして二人いなくなった

10~20年前に書かれた三澤の著書を読んでいると、今まさにトレンドになっていることが数多く書かれていて、その高い先見性に驚きます。

「ホームコア」にせよ、「ヘリコ」にせよ「O型」にせよ、「フューチャー・ハウス」にせよ、「蔵」にせよ、「ゼロエネルギー住宅」にせよ、当時は(そして今でさえ)「なんじゃそりゃ!笑」なアイデアだったはず。

そんな三澤の破天荒なアイデアを現実世界へと軟着陸させるのが、これまた別種の破天荒だった山本の役割だったのでしょう。どちらが欠けてもだめだったわけで、バブル期に推し進めた事業拡大のツケがバブル崩壊後のミサワホームを苦しめることになっていきます。

そしていま、ミサワホームには三澤も山本もいません。そして一連のゴタゴタ騒動を経てついに(というかようやく)トヨタの子会社化となりました。あの自動車は一流なのに、住宅事業はパッとしないと揶揄されるトヨタに。そして2017年10月にはミサワホーム設立50周年を迎えました。

2018年9月、三澤は新著を出版します。その書名はなんと「三澤千代治の遺書」。

この本のあとがきには、あの事故から33年を経てもなお三澤の心に山本の存在が大きくあることをありありと示しています。

住宅事業をてがけて55年。傘寿といわれて思い浮かべるのが、不思議にミサワホームを立ち上げた当時のことだ。高等学校からの友人であった山本専務と一緒に始めた。私は理系、彼は文系で近江商人の血を継ぐ。性格も趣味も私とは正反対だったが、私の不得意とするところをすべてやってもらった。(中略)山本が居なかったら会社がちゃんと離陸できたかどうかわからない。
(三澤千代治『三澤千代治の遺書』2018)

そして、あの事故のことに触れ、最大の友人を失ったことの悲しみを綴るのです。

友人を失くしたことが悲しかった。そして、その後の仕事は思うようには進まなかった。山本がいたら、どうしただろう、と思うことは多い。ただ、今は私の信じる住生活事業を突き進めるしかないと心に決めている。それなしには、山本に合わせる顔がない。
(三澤千代治『三澤千代治の遺書』2018)

最高に破天荒な商品住宅を生み出してきた孤高のハウスメーカー・ミサワホームも、随分と上品に収まって今に至ります。「ハウスメーカー住宅」のイメージができあがった時代ゆえ当然といえば当然でしょうが、住宅産業の振興期に破天荒を貫いた三澤にしてみれば、それは味気ないものにみえるでしょう。破天荒なき今、というか破天荒が必要とされない今、ハウスメーカーのコモディティ化が完成したことを象徴するかのように。

三澤は著書の最後をこう締めくくります。

住宅産業は大きく、奥が深い。これからもどんどん変わっていく。不完全燃焼なのだ。だから、生まれ変わっても住宅をやる。
(三澤千代治『三澤千代治の遺書』2018)

(おわり)

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