テラス42_1991

「斜面の魔術師」建築家・井出共治が手掛けた斜面住宅の世界

斜面に沿って段々に建ってる集合住宅。たとえば、安藤忠雄の名作「六甲の集合住宅Ⅰ」(1983年)が頭に思い浮かぶ方も多いかと。斜面地を利用して段状に建設されたのが「斜面住宅」。

そんな「斜面住宅」を得意とし、そして「斜面の魔術師」という怪しげ(?)なニックネームをもつ建築家・井出共治(1940-2010)の存在を不勉強ながらはじめて知りました。

そんなわけで「斜面の魔術師」と呼ばれるほどの彼が手掛けた「斜面住宅」の世界を、ちょっとばかしのぞいてみたので以下にまとめておこうと思います。


とある二つの斜面住宅

わけあって、名古屋市天白区表山1丁目に建つ「八事表山住宅」を訪れる機会がありました(図1・2)。

八事表山住宅

図1 八事表山住宅(Google Map)

画像2

図2 八事表山住宅

1981年に日本住宅公団によって建設された集合住宅。同年に公団は住宅・都市整備公団へと改組されるわけですが、ちょうどそんな転換期に建てられたのがこの「八事表山住宅」です。

特徴はなによりも、斜面地に段々状に建てられていること。いわゆる「斜面住宅」です。ちなみに、そこから徒歩数分の同じく表山(3丁目)には「サニーヒル表山団地」という、これまた「斜面住宅」が建っています。こちらは1984-87年で住宅・都市整備公団によるもの(図3・4)。

サニーヒル表山

図3 サニーヒル表山団地(Google Map)

画像9

図4 サニーヒル表山団地

日本住宅公団が住宅・都市整備公団へと生まれ変わる1980年代初めに、同じ表山に建つ二つの「斜面住宅」。そういえば、冒頭に触れた安藤忠雄の「六甲の集合住宅Ⅰ」も1983年でした。

このサニーヒル表山について書いた拙文を、月刊『建築ジャーナル』に掲載いただきました。リレー連載「居住の夢・戦後住宅クロニクル【28】1984~サニーヒル表山と斜面集合住宅の時代」です。

敗戦後、庶民のための住宅を大量かつ短時間に建設されなければならなかった「量」の時代から、1980年代には「質」の時代へと移行します。個人の好みの多様さを求める時代になり、住宅もいろいろな要求に応えないといけなくなりました。住宅・都市整備公団が手がける集合住宅にも、高齢化対応、感性重視、インテリジェント願望といったニーズに応じた試みが新しく実施されたのだそう。

そうした試みの一つが「斜面住宅」です。

「斜面住宅」は文字通り斜面地に集合住宅を建設するもの。住戸は敷地形状に応じて階段状に計画される点に大きな特徴があります。1980年前後にかけて公団などの公的住宅のほか、民間業者によっても多数建設されたそうで、豊かな自然環境と個性的な住戸計画が相俟って良好な住環境を形成していると評価されています。

「斜面の魔術師」と呼ばれた井出共治も、こうした時代背景のなか数々の「斜面住宅」を手がけたのです。


建築家・井出共治と「斜面住宅」

「斜面の魔術師」と呼ばれた建築家。簡単な経歴は以下のとおりです。

1940年、東京に生まれる。1946年、長野に移住。1966年、東洋大学建築学科卒業、伊藤喜三郎建築研究所に入所。同年9月より東京大学建築学科内田研究室の研究生となる。1968年、SUM建築研究所設立。住宅開発としての斜面開発に力をいれ、主に傾斜地の集合住宅の設計を手掛けた。
(LANDSCAPE DESIGN、88号、マルモ出版、2012)

井出が主宰したSUM建築研究所を継承する株式会社サムデザインのHPには、主な集合住宅関連プロジェクト(全てではない模様)として、次のような事例がリストアップされています。

1972 おみずばたリゾート
1979 藤が丘タウンハウス
1981 ウインザーハイム鷺沼パストラル
1981 ウインザーハイム南砂
1983 平塚ガーデンホームズ
1985 ヒルサイド久末
1986 ハイツ町屋
1986 ガーデンテラス
1986 ゆりが丘ビレッジ
1987 ペガサスマンション大倉山
1987 ペガサスマンション浮間公園
1990 HOMES20
1991 テラス42
1992 落葉荘
1993 指扇ホームズ
2002 草庵
2003 水明荘

これら全てが「斜面住宅」ではないのですが、特に注目されたプロジェクトが「斜面」住宅。でも、なぜよりによって「斜面住宅」だったのでしょうか。一連の「斜面住宅」の端緒とされる「ウインザーハイム宮前平」(1978年)は、次のような経緯で誕生したのだといいます。

当時、事務所には仕事が無く、井出氏は親しい不動産屋を訪ねては敷地を探し回り、開発不能としてゴミ捨て場同然となっていた敷地に注目。そこに段状マンションを設計したものだった。
(小室清高「段状マンションで名をあげ「斬新企画」で売れっ子に」、日経アーキテクチュア、1987年7月27日号、日経BP社)

そして脚光を浴びる転機になったのが「ヒルサイド久末」(1985年、図3・4)だといいます。計画地となった高低差27mの急斜面は、事業が成立しないとディベロッパーも尻込みしたそう。そんな敷地に井出はこだわり、眺望良し、日当たりも通風も良し、さらには自然にも親しむことができる集合住宅を実現したのでした。

ヒルサイド久末

図3 ヒルサイド久末(google Map)

画像10

図4 ヒルサイド久末(sum design HPより)

「ヒルサイド久末」の設計にあたって、井出は「GパンとTシャツのような住宅」にしたいと考えたのだとか。

躯体は丈夫に。その代わり、外部の仕上げなどは多少雑でもかまわない。そして不必要なもの、あってもなくてもかまわないものは一切省く。そんなGパンとTシャツのような住宅をつくることにした。
(「GパンにTシャツ感覚の斜面住宅」、日経アーキテクチュア、1985年6月17日号、日経BP社)

この「ヒルサイド久末」は、2013年に第13回日本建築家協会25年賞を受賞しています。この賞は「25年以上の長きにわたり、建築の存在価値を発揮し、美しく維持され、地域社会に貢献してきた建築」を登録・顕彰するもので、「建築が未来に向けて生き続けていくために、多様化する社会の中で建築が果たすべき役割を確認するとともに、次世代につながる建築のあり方を提示する」ことを目的として設けられたものです。

講評では次のように評価されています。

1985年竣工の本建物は「自然との同居」の言葉がふさわしい建物である。年を経て移設、新設の木々が育ち、どの樹木も自然に還っている。5階建てであるが、周囲を歩いていてそれを感じさせない。本建物は斜面地を有効に生かした集合住宅である。設計者の得意分野なのだろう、完成度の高いものに出来上がっている。竣工時からの住民、そして新しく引っ越してきた住民、共に建物に高い関心と愛情を持ち、ボランティア活動等で大事に環境を維持している様子が伺える。25年賞にふさわしいものと言える。
(「講評」審査委員 山田曉)

集合住宅を建てる敷地としては無価値とみなされた場所が、豊かな居住環境を育む場として生まれ変わったのでした。井出は、さらに翌年に「ゆりが丘ビレッジ」(1986年)を手掛けます(図5・6)。こちらもまた日本建築家協会25年賞を受賞するに至ります。

ゆりが丘ビレッジ1986

図5 ゆりが丘ビレッジ(google Map)

画像11

図6 ゆりが丘ビレッジ(sum design HPより)

その後も、「ペガサスマンション大倉山」(1987年、図7・8)、「テラス42」(1991年、図9・10)といった「斜面住宅」を次々と手掛け、まさに「斜面の魔術師」と称えられるにふさわしい作品群を生み出していったのでした。

ペガサスマンション大倉山1987

図7 ペガサスマンション大倉山(google Map)

画像12

図8 ペガサスマンション大倉山(sum design HPより)

テラス42 1991

図9 テラス42(google Map)

画像13

図10 テラス42(sum design HPより)


「斜面住宅」の住み心地

とはいえ、高低差の激しい斜面地に段状に建てられた、なんというかバリアフル感はげしい集合住宅は、住み心地・住み勝手はぶっちゃけどうなのだろうと不安になります。

そんな不安に応えてくれるのが「テラス42(現・ヒルサイドテラス平山城址)」を取材した好記事「里山にそびえる『段々御殿』は、天上の暮らし」です。気になる住み心地を教えてもらいましょう。

実際の居住者さんの言葉によれば「リゾートに住んでいるよう」だとか、「一軒家で入浴している気分」だとか、自然に恵まれ眺望も豊かな「斜面住宅」だからこその利点が活きているようです。斜面地ゆえやっぱり気になる上り下りについても、「エレベーターがないことはここを買う前から皆さん織り込み済みです。むしろ運動習慣が身につき、健康になったという方が大半だと思います」とのこと。ほへー。すばらしい。

少なくとも実際の居住者は、誇りと愛着をもってこの「斜面住宅」に住みんでいる。そのことがヒシヒシと伝わってきます。「開発不能としてゴミ捨て場同然となっていた敷地」とみなされがちな斜面地が、豊かな居住環境として生まれ変わっているのでした。

雑誌『LANDSCAPE DESIGN』の井出共治・COM建築研究所特集は、その見出しを「見捨てられていた不愉快な場所の再生」として、次のように記しています。

私たちは、身近にコンクリートで固められた法面や、赤土がむき出しの今にも崩れそうな危険な斜面地、ゴミ捨て場になっている林など、人々に見捨てられた場所をよく見かける事がある。このような場所は人々に不愉快な場所として目に映るはずである。建築家の井出共治氏はそんな場所を人と自然が融合する気持ちのよい暮らしの場として再生してきた。そしてそこは時間の経過とともにますます質の高い住宅地として今でも評価され続けている。
(LANDSCAPE DESIGN、no.23、マルモ出版、2001)


バブルが生んだ「斜面住宅」

その名も『ヒル・ハウジング:斜面集合住宅』(デリック・アボット、キンブル・ポリット著、小川正光訳、学芸出版社)と題した本があります(図11)。日本で翻訳出版されたのは、やっぱり1980年代にあたる1984年。

画像7

図11 『ヒル・ハウジング』

ヒル・ハウジングは、高いプライバシーを保てる。高密度にもかかわらず広々とした間取、何よりも日当りとすばらしい景観の確保、本書は今まで問題が多いとされていた斜面集合住宅の新しい側面を開拓し、各国の豊富な事例をもとに広範囲の情報を提供し、斜面利用の有効性を提示する。
(学芸出版社、HP)

そもそも「斜面住宅」は1980年代よりも前からあるもので、この本でも中世ヨーロッパの事例から近現代の集合住宅まで多岐にわたる事例を紹介しています。

また、1960年代の終わり頃から斜面地に立地する集合住宅が相次いで建てられ、雑誌『都市住宅』でたびたび取り上げられています。このあたりの経緯については、堀田典裕『山林都市:黒谷了太郎の思想とその展開』(彰国社、2012年)に詳しいです。斜面地に集合住宅を建設するに際して、ヴァナキュラーな斜面集落が参照されたそうで、デザイン・サーヴェイの成果が「斜面住宅」の設計にも受け継がれていることに驚きます。

冒頭に紹介した安藤忠雄や住宅・都市整備公団の、そして「斜面の魔術師」井出共治が手掛けた数々の「斜面住宅」たちは総じて1980年代に建てられたものなわけで、言うまでもなくバブル期初期に突入しつつあるなか土地価格が高騰して「もはや斜面しか建てられる場所がなかった」という事情の裏返しでもあります。

いってみれば「井出氏は親しい不動産屋を訪ねては敷地を探し回り、開発不能としてゴミ捨て場同然となっていた敷地に注目」という先に引用した文章は、そうした時代背景をにおわせるにとどめた表現なのでした。

どちらかというと、「人と自然が融合する気持ちのよい暮らしの場」は後からついてきたのであって、「開発不能としてゴミ捨て場同然となっていた敷地」の活用が先にあったということ。

ちょうど1970年代以降、環境問題への意識が高まるなか「人間と自然との共生」といった表現もみられるようになっていました。エコロジカル・ランドスケープもまた1970年代に注目されていきました。

さらに住宅・都市整備公団は、日本住宅公団という量の時代の設計手法から転換すべく、「3つの住環境ニーズ」を打ち出しました。そのひとつが「うるおいニーズ」。「感性重視」を掲げ、騒音のない静かな環境や、散歩コースがあること、お年よりがくつろげる、採光は充分、換気・通風もいい、自然を生かしていて、ふれあう機会が多い、眺望・日射を楽しみたいといったニーズを例に挙げています。

1970年代のもろもろの動きを経ての1980年代。「負」の要因も「正」の志向もそれぞれパーツが揃っていたのです。

結果として、「斜面住宅」は「建築が未来に向けて生き続けていくために、多様化する社会の中で建築が果たすべき役割を確認するとともに、次世代につながる建築のあり方を提示する」ことができたのでした。案外と、そんなつもりじゃなかったのに試行錯誤の末、マイナスをプラスに転換できた事例って、あちこちにころがっているのかもしれません。

(おわり)

サポートは資料収集費用として、今後より良い記事を書くために大切に使わせていただきます。スキ、コメント、フォローがいただけることも日々の励みになっております。ありがとうございます。