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4月26日は「よい風呂の日」|ほくさんバスオールから考える

今日、4月26日は「よい風呂の日」。「よい(4)ふ(2)ろ(6)」に由来するとのこと。ということで「ほくさんバスオール」(図1)にご登場ねがいます。

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図1 「ほくさんバスオール」(出典:エア・ウォーター物流HP)

「ほくさんバスオール」は、1929年に北海道にて設立された北海酸素株式会社(後の株式会社ほくさん)が1963年から販売開始した簡易型ユニットバス。当初の商品名は「ほくさんスタンウェルバス」といいました。

ほくさんバスオールの誕生

当時の社長・水島健三は1959年、創業三十周年記念に「全国的企業」への展開を宣言します。プロパン、酸素、溶解アセチレンなどを手がける北海道の一企業・北海酸素が全国展開!?社員はどん引き。でもそれは後に現実化することに。その躍進の起爆剤となったのが「ほくさんバスオール」でした。

中尾光弘『攻めの商道:バスオールに賭ける水島健三の執念』(ダイヤモンド社、1979年)には「バスオール」誕生秘話があれこれ綴られています。

もともとの着想は家庭でのプロパンの消費量をどうやって増やすか?でした。まぁ、そりゃお風呂だろう。ガス屋さんが風呂をつくることになりました。「今朝、電話をかけたら、もう、その日の夕方には入れる風呂があるはずだ……」。

「すぐ使える」というキーワードは1960年前後の「インスタント時代」に強く結びついています(図2)。日清食品「チキンラーメン」の発売が1958年。大和ハウス工業「ミゼットハウス」の誕生も1959年。水島社長の宣言はまさにそんな1959年になされたものでした。

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図2 「インスタント時代です」(出典:週刊朝日、1960年11月13日号)

ちなみに、世界初のユニットバス開発については、東京オリンピックの開催に伴う外国人客受け入れへ向けて急ピッチで建設されたホテルニューオータニの事例が有名です。

ホテル建設を受注した大成建設は工期短縮の鍵を握る風呂・トイレ・洗面台のある浴室空間のユニット化を目論み、東洋陶器(現・TOTO)に新工法開発を依頼。無事に開発成功しました。これが1963年のこと。以後、集合住宅向けユニットバス(1966年)、戸建て住宅用ユニットバス(1977年)の開発が続きました。

世界初のユニットバス開発と並行して進んでいたのが、北海酸素の簡易お風呂でした。社員が水島社長が言うような風呂を考案している人物を発見します。それは、水戸のヤエス化工社長・立井宗久。北海酸素は立井を社に招き商品開発に専心してもらうことになりました。当初の商品名「スタンウェルバス」という名称は「立・井」に由来します笑。

一時期、立井は北海酸素・ほくさんの常務取締役に就くも、水戸に戻ってデベロ工業を設立することに。介護浴槽「リハビーバス」開発。1972年には寝たきり老人のための移動入浴車の開発・製造に乗り出すことになりました。

ほくさんバスオールの躍進

さて、「ミゼットハウス」登場の4年後に販売された「ほくさんスタンウェルバス」、後の「ほくさんバスオール」ですが、これがまた爆発的に売れることになります(図3)。当時の住宅事情では、住宅に風呂がないことが多く、皆は銭湯に通うのが常。当然に雨の日や、子だくさんの母親、帰宅が遅い父親などにとっては銭湯に通うことは「戦闘」態勢でした。そんななか、自宅で入浴できるというのは恩恵でした。狭いながらもわがお風呂。

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図3 発売当初の「バスオール」広告(出典:千里ニュータウン情報館)

たとえば千里ニュータウンに約1万戸建つ府営住宅は2DKの手狭な間取りで、さらに風呂ナシという窮状。後に「戸数主義」と批判される狭い間取りゆえ致し方ない現実。そこに登場したのが、ガス湯沸かし器・排水ホース・シャワー・浴室・ふた兼用の洗い台・タオルハンガー・石鹸置き・鏡・照明つきで6万3千円=当時の給料1ヶ月分という設定はがんばれば手が届く「夢のお風呂」でした。府営住宅のベランダには続々と「バスオール」が並んだといいます。

府営住宅の「2DK」という間取りがもたらす問題とその解決への戦いは前田正明・酒井祥吉『公共住宅の増築運動:住宅政策研究』(ドメス出版、1982年)に詳しいです。「狭さゆえに、居住者は人間の本来的なもの、家族を構成、維持、生活していくための基本的条件を剥奪されていはしないか」という問いかけのもと、あと1部屋とお風呂の増築が「“持ち家思想の呪縛”からの解放」にまでつながる問題であることが熱く語られる本です。

爆発的に売れた「バスオール」なのに発売から8年間はずっと赤字続きだったそう。ずさんな販売体制・手法などのほか、そもそもユニットバスなのに量産体制が構築できていなかったといいます。このあたり、初期プレハブ住宅にも共通するものがあり面白いです。

ほくさんバスオールの展開

初期のごくごく簡易的な「バスオールS型」は次第にユーザーからの要望を受けて大型化・デラックス化し、1966年には洗い場が独立した「W型」を販売開始。ついにお風呂の「代用品」から一人前の「ユニットバス」へと成長したのです。

この手の時代を象徴するヒット商品は開発秘話や成功物語に注目が集まりがちですが、それにも増して面白いのは、その後の商品展開とそこでの軋轢といった社会ニーズとのすり合わせの歩みです。ほくさん社内報の1コーナー「社長一言」をまとめた『ほくさんへの道』(1967年)や『続ほくさんへの道』(1974年)は、そんな「すり合わせ」をたどる絶好の文献となっています。

最初の簡易型ユニットバス「S型」から「W型」「L型」「G型」など次々と商品開発がなされていく過程で「脱・代用品」が図られます。ターゲットも公営住宅から戸建て持ち家へと比重を移していきます。お風呂のない家庭はいまだにタイルのお風呂を夢に描く。お風呂のある家はむしろ豪華なホテル並のグラスファイバーの風呂にあこがれる。夢やあこがれのギャップ。「代用品」からスタートした社員自身の商品イメージがその展開についていけなかったりします。そんな社員たちを見た水島社長は、1970年の社内報にて「お風呂としての最高級品がバスオール」なのだと社員を鼓舞しています。

動画 「ほくさんバスオールシリーズ」CM(1:00あたりから)

1963年の販売開始から4年。懸命なセールスを展開していた社員たちをある雑誌の記事が勇気づけます。それは辛口批評で有名な『暮しの手帖』(図4)。4頁半にわたり記事を書き、しかも「これは、まるで、いまの日本の庶民のチエとねがいが、執念のようにこめられているみたいな珍しい商品」と褒めたたえたのです(第1世紀第88号、暮しの手帖社、1967.2)。

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図4 バスオールの記事が掲載された『暮しの手帖』

いま見ると、よくこんなせせこましいサイズのお風呂でくつろげたなぁ、と感じてしまいますが、記事にはこう書かれています。

まだ新しい総理大臣に誰がなるのか見当がつかないが、その人に、いちどこのバスオールに入ってみてほしい。なんとも体のやり場のないような洗い板の上で体を洗い、そして湯ぶねの中に体を七分がとこ沈めて、そして、じっと目をつぶって……ほんとに幸せだという気がします、といった人たちの気持になってみてほしい。

「ほくさんバスオール」は、「よいお風呂」に思いをはせるとはどういうことなのかを教えてくれます。

(おわり)

参考文献
1)水島健三『ほくさんへの道』ほくさん、1967年
2)水島健三『続ほくさんへの道』ほくさん、1974年
3)中尾光弘『攻めの商道:バスオールに賭ける水島健三の執念』ダイヤモンド社、1979年
4)前田正明・酒井祥吉『公共住宅の増築運動:住宅政策研究4』ドメス出版、1982年
5)市民委員会編『千里ニュータウン展:ひと・まち・くらし』吹田市立博物館、2006年
6)海野洋平「ユニットバス開発物語」建設技術支援協会・LLB技術研究会編『設備開発物語:建築と生活を変えた人と技術』、市ヶ谷出版社、2010年

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