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新聞部は「邪魔者」なのか 役割の固定から転回へ

血液型による性格診断は、とっくの昔に科学的に否定されている。にもかかわらず、未だに信じてしまう人はいる。そのような人が、もし何気なく観ていた映画の中に、登場人物が性格によって相手の血液型を言い当てるシーンを発見したとする。すると、その人の「誤解」は、無意識のうちに深まってしまう。「映画にも描かれているのだから、これは一般常識に違いない」というように。

時々、物語の描写に批判的な意見を言う人に向かって、「フィクションと現実の区別がついていない」という言葉が投げかけられる。しかし、万能に聞こえるこの言葉にも、今述べた血液型の例のような、意外な落とし穴がある。

物語は不可能を可能にする素敵な力がある。ドラゴンが現れたり、魔法が使えたり、ときには人を殺すことができたり。確かに、物語の受け手がそれらを現実と混同することはまずない。現実にドラゴンがいないことも、魔法が使えないことも、殺人が悪いことだとも、あくまで常識として知っているから。

でも、日常の中で僕たち自身が気づいていない「誤解」や「偏見」が物語に描写された場合には、それらの事柄は更に「常識」に補強されてしまう。つまり物語には、本当に現実に影響するかもしれない危険性がある。だから、頭を空っぽにして物語を楽しむのもいいけど、時には批判的な目を持つのも大事だ。

先日放送されたドラマ『相棒20元日スペシャル』では、プラカードを掲げたデモ隊が「ヒステリックに」描かれたシーンがあり、脚本家自らが、そのような演出は意図していなかったとブログで異議を唱える、異例の事態があった。

参考:

・脚本家/小説家・太田愛のブログ


・ニューズウィーク「ドラマ『相棒』の脚本家を怒らせた日本のある傾向」2022年01月05日(水)

https://www.newsweekjapan.jp/fujisaki/2022/01/post-30_1.php


この一件では、デモ活動をする人々が、物語では冷笑の的として描かれがちな「偏見」が疑問視された。このことから僕が考えさせられたのは、デモをする人々に限らず、特定の立場や属性の人々が、物語で役割を固定されてしまう「お約束」の問題だ。

「お約束」はもともと悪いことではない。典型的な例で言うと、勇者と魔王が出てくれば、「これは勇者が主人公で、悪いことをする魔王を倒すお話だな」と、プロットが受け手にすんなりと伝わるようになる。一種の作劇術だ。でも、その便利さに甘えすぎると、『相棒』のように「誤解」や「偏見」の補強につながってしまう。

僕が子供向けのマンガやアニメを観て気になっているのが、特に学園モノの場合、新聞部のキャラクターが主人公たちの妨害をする「邪魔者」として描かれがちなことだ。新聞部員に限らず、ジャーナリストやジャーナリスト志望のキャラもそうなのだけど。彼らのほとんどは度の強そうな眼鏡をかけ、「スクープ」が口癖で、常にカメラを持ち歩く。そして、他人のプライベートを執拗に探ったり、憶測や誇張でスキャンダルを仕立て上げたりという、ステレオタイプな「パパラッチ」の姿で表現される。

これも一つの「お約束」として、主人公たちには周りに知られてはならない秘密があり、それがバレそうになるという展開がある。そのようなとき、確かに深追いしてくる「パパラッチ」キャラは便利なのだろう。

現実にゴシップ記事はあるし、それに応じて「パパラッチ」的な記者もいるのだろうけど、でもそれはジャーナリズムの一面でしかないはずだ(それを「ジャーナリズム」と呼ぶのかも怪しい)。学園モノにおける「邪魔者」としては他に、主人公たちの自由な活動の障壁となる教師や、生徒会などの権力も「お約束」だけど、もし新聞部がそれらに対峙する話があったら、観てみたいと思う。

『おジャ魔女どれみ』シリーズでは、主人公のどれみ(小学生)が、バトルレンジャーというヒーローが好きな設定があった。クラスの男子たちも好きで、バトルレンジャーごっこをしていると、どれみの仲間たちは「男子はお子様だね」というような旨のことを言う。そして、どれみもバトルレンジャーが好きなことがバレると、ギャグ演出なのだけど、仲間たちから白い目で見られてしまう。

ここでの問題は、『おジャ魔女』が戦隊シリーズと同じニチアサにやっていたことだ。このシーンによって、戦隊モノを見た流れで『おジャ魔女』も見ていた男の子は「自分はお子様なんだ」と傷付いたかもしれないし、戦隊モノも好きな女の子は「自分は楽しんじゃいけないのかな」と疑問に思ったかもしれない。

でも、この反省は後に生かされた。『おジャ魔女』シリーズ3作目の『も〜っと!』は、テーマは「成長」だけど、新しい仲間のももこはアメリカ育ちで日本語がわからないというように、「自分と違う立場への理解」が時折描かれる。そんな『も〜っと!』内の単発エピソードで、「男の趣味」とされる模型のグライダーを、女の子が楽しんでもいいんだというメッセージが発せられた。これはとても良かった。

このように、表現は批判的思考から常に磨き上げられていく。既に世に出た表現を抹消せよだとかという話になってくると、表現の自由の観点から、僕は行き過ぎだと思うけど。

『おジャ魔女』は20年余り前の作品だから、今見ればそうした古い「誤解」や「偏見」が目につきやすいけど、現行の作品だったら見つけるのは難しいかもしれない。でも大事な作業だから(『おジャ魔女』が改善されたように)、誰かがやらなければならない。

最近の転生モノのブームの一つとして、現実世界の人間が、フィクションの登場人物に転生し、物語の「お約束」を破っていくというジャンルがあるようだ。僕はそれらの作品を読んではいないけど、登場人物の役割ロールの固定化を打ち破り、「転回ロール」させていく流れとして、面白い試みだと思う。

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