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言葉と時間 言葉は空間に存在可能か

これは眠りながらの口述や、常軌を逸した高速で文章を書く実験などだった。

出典:「オートマティスム」Wikipedia


先日、自動筆記オートマティスムを実践した。自動筆記は、のめり込みすぎると精神に支障をきたすこともあると言われている。そのため、あまり本気にはやらなかった。それでも、僕は少し錯乱した。無意識に、あるひとつの考えが頭を占めて離れなかった。

「絵画的な言葉が欲しい」という考え。

なんら論理的に現れてきたのではない。ノートの罫線に従い、一文字ずつ書くという身体的な運動。つまり時間を伴うことでしか、言葉が生まれない疎ましさの末に発露した考えだ。

もちろん絵画も、描くという行為には時間が伴う。けど、完成してしまえばそれまでで、後は空間の領域に属す。

空間芸術と時間芸術という分類法があるように、絵画などの物体として存在するものは、空間芸術だ。それに対し、映画や音楽、小説などは、時間芸術に属す。

言葉が芸術の中に生きるとしたら、専ら時間芸術の中だろう。イメージを表現する、あるいは喚起する媒体としての言葉。しかし言葉は、時間的にしか認識されない。

小説は時間芸術だけど、本という形をとり、一個の物として空間に存在することができる。

だけど、本の中の無数の文字は、読むという工程を経て、はじめて言葉として認識される。読まれなければ、つまり時間をくぐらせなければ、文字はただのインクの集合体に過ぎない。ディスプレイの場合は、ドットの集合体だ。

文字も音声も、言葉の伝達手段ではあれど、言葉それ自体ではない、ということになる。

絵画や写真は、キュビスムの延長線として、残像などの表現を用い、静止画の中に時間の定着を可能にした。彫刻にもこの手法は見られる。

では言葉は。言葉という時間的な存在を、どうすれば絵画的に、空間のなかに閉じ込められるだろう。言葉で空間的なイメージを描写するのではない。それは難しいことじゃない。僕は言葉それ自体を、空間的に表したいと思ったのだ。それが僕の言う「絵画的な言葉」だ。

タイポグラフィというものもあるけど、あれは文字を視覚的にデザインする手法だ。もちろん、その文字が意味する言葉のイメージをデザインに落とし込むことにはなるけど、やはり文字に頼っていることに変わりはない。文字である限り、読まれなければ言葉として機能しない。書道も同様だ。

宗教画には、読み書きのできない人にも聖書の内容を伝える機能があった。これは言語だろうか。絵画は言語なのだろうか。言葉には不可能なことを、絵画が補っているのではなく? それは言葉と言えるのだろうか。

言葉にしかできないことを求める、と同時に、言葉には不可能な機能を、言葉に求めようとしてしまっている。ということなのかもしれない。

あの日以来、言葉と時間の、「そのようにしか存在できないことわり」のようなものに、吐き気に似た感覚を抱き続けている。

文章を読むうえでも、なぜ一文字一文字、順に文字列を追わねばならないのか、などと疑問を感じる始末だ。

どうしよう。

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