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縫い針の歴史 Ver1

 針は人間が生き抜くために必要な三大要素である「衣食住」の衣に相当する着衣の製作に必要な道具であり、現代においても着衣を繕うためには欠かせないものである。
今日の学校教育においても男女問わず家庭科で必ず裁縫を学び、針を使用する機会は日常的となっている。このように誰もが一度は使用したことのある針について、いつから、どのように作られ使われてきたのか書籍でまとめられることもなかった。
 特に金属製の針について述べていこうと思うが、骨角製針の歴史は北京原人まで遡る。北京の周口店遺跡から出土した骨角製針を見てみると頭部に針孔(糸を通す穴)を有し、先端は尖っている。まさに現代の針と類似しているのである。
 長い年月を経て、材質の変化は認められるが形態的な特徴を変えていないモノが針以外にあるだろうか。私が専攻していた考古学はモノの変化から人類の歴史を構築する学問である。しかし、針は土器のように文様によって編年を組むことも、石器のように石材を追って産地を推定することも難しい。
 そこで、骨角製針から金属製針への転換期である古墳時代に材質の変化にともなう製作工程や鉄資源の関係から産地や消費の多い地域が推定できるのではないかと考えた。
 古墳時代の人々はどのように針を使い、その針とはどんなものであったのかご紹介していきたい。

考古学的側面からの針研究史

針の歴史は非常に古い。
中国北京にある周口店遺跡から骨角製の針が発見されたことから、北京原人の時代から針が使用されていたことが分かる。日本においても縄文時代には骨角製の針が使用され、その用途は多様である。骨角製の針から金属製の針が広く使われるようになったのは古墳時代でありその変化とは技術の進展を意味している。
 古墳時代の針状鉄製品のうち、「針」として最初に報告されたのは、87年前の1928年に山口県赤妻古墳の舟形石棺から出土した「鐵針」である。これは『考古雑誌』18−4に記載されている「周防国赤妻古墳並茶臼山古墳(其1)」として広津史文が報告している(広津1928)。
 その後、集成が行われたのは1969年であり、東京大学考古学研究室が千葉県我孫子古墳群の報告書内で針出土古墳の集成が行われた(東京大学1969)。1928年から1969年の41年間で針の報告はなされていない。1986年に平ノ内幸治が福岡県内の10古墳例を集成し、1986年に楠本哲夫が全国集成として68古墳・祭祀遺跡1例を集成した(楠本1986)。
 楠本氏の全国集成が針研究における最初の全国的な集成である。しかし、集成はされているが針について検討されていない。2000年代になると間壁葭子が岡山県の金蔵山古墳出土の針を再検討し、針の長さによる使い分けがあった可能性を想定した(間壁2000)。
 また大阪府八尾市に所在する心合寺山古墳出土の針について藤井淳弘が分析し、古墳に針を副葬する意義を検討するため針出土古墳の全国集成をおこなっている(藤井2001)。
 2010年、2012年には大谷宏治が古墳時代の金属製針について集成、論考をおこない、金属製針を長さから4種類に分類した(大谷2010、2012)。2013年には合田芳正が「縫う」という人間活動の広義の中で「針」を取り上げ研究している。合田氏は大谷氏の論考(大谷2012)を評価した上で金属製針を3つに大別し、各部位(頭部・身体部・針先)を詳細に分類した。90年代までは針の集成のみで具体的な考察はおこなわれていないが、2000年代になり藤井氏、大谷氏、合田氏が集成、研究をおこない、2022年現在の針研究の到達点となっている。


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