全ての黒を打ち据えて 上

「男と別れたからって、これはないよ姉ちゃん」
康樹は首から下げたタオルで額を拭いながら言う。私は傍に甘い缶コーヒーを置いた。
「形から入るのは姉ちゃんの悪い癖だよ。絶対使わなくなるから、こんなの」
「お駄賃あげるから、ぐちぐち言わないでよ。助かった、ありがとう」
エアコンのない部屋で、朝の10時から作業を始め、16時になってようやく終わった。窓を全部開け放って風を通して、ようやく部屋の中の鬱屈した空気が消えた。
6畳間のど真ん中に、黒々と聳え立つサンドバッグが、今日の成果だ。
「姉ちゃん考えが甘いよ。最初からこんなサンドバッグ買うなんて。もうちょっとさ、腹筋ローラーとか、ゴムとかで良かったんじゃない。絶対使わなくなるよ」
「うるさいなぁ。どうせ欲しくなるなら、良いやつ買った方がいいでしょ」
部屋の中は白で統一している。可愛げはないけど、スマートに見える。あとは埃が見えやすいからすぐ掃除しようとするし、その中でこのサンドバッグは異質だ。

夜になり、近所のファミレスで康樹に夕飯を奢った。胃がもたれそうになるミックスグリルが、油の匂いを振りまく。1つ下の弟、康樹は高校の時、大会の成績が全くない、喧嘩紛いの空手部にいて、そういう器具に詳しい。私がちょうどよくサンドバッグを買うというので、組み立てを手伝わせた。人選は最適だ。
「しかしなあ、なんであんなの買うかな。絶対男寄り付かないよ。俺だったら確実にドン引き」
「最近運動不足だし、ストレス解消にいいじゃん」
康樹は鶏モモ肉のグリルを切りもせずにフォークで突き刺し、齧り付く。口の周りに付いた脂が鉄板に垂れ、少し嫌になった。
「全然分かってない。姉ちゃん本気で物殴ったことないでしょ。すっきりなんてしないよ。道場にも通わずにそれやるのは暴挙だよ、空気入れるやつにしとけば良かったのに」

きっかけはこうだ。
ついこの間まで付き合っていた真司が言った一言が私を引き裂いたのだ。
「手首こんなに細いんだね。折れそう」
中指と親指が、私の手首をぐるりと掴んでくっついていた。真司はその手を外そうとしなかった。私はただのじゃれつきだと思いつつも、もがいた。
真司は決してガタイがいい訳ではない。胴は薄いし、腕も血管が浮いている。だけど私はいくら引っ張っても外せないのだ。急に血の気が引いた。

身長が10センチ違う、体重は変わらない。なのに性別が違うというだけで、こんなにも圧倒的に蹂躙される事を私は信じることが出来なかった。
「姉ちゃん。すごい今更だけどさ、俺、あの時怖かったんだよ」
「あの時?」
「ほら、2年の時、後輩1人ぼこぼこにして停学喰らった時」
真司は高校2年の時、後輩を1人病院送りにした。それまでも、集団でいじめ、みたいな事に加担したことはあっても、病院送りにする程ではなかった。もちろんその時は事実だけが非難されて、この話を真司本人から聞くのも初めてだった。でもその停学を喰らってから真司は、別人のように大人しくなって、浪人はしたけど、中堅ぐらいの大学に入って、更生した。その理由を、私も含め、だれも気付いていなかった。ただその、更生した事実だけを見て、喜んだ。
「一発ね、腹パンしたの。直突き、綺麗に。そしたらさ、あいつ大袈裟に腹抱えて呻き出してさ、こっちはどのぐらい効いてるかなんて、分かんなくて。あいつの顔見たら凄い顔で睨んでくるのよ。殺してやるって目付きで、そんなの見てられなくて、動いてくるのが怖くて、全力で前蹴りして、バカみたいな動きでさ。あの前蹴り、0点だったけど、そこから意識ないんだ。どうしたらいいかわかんないけど、止まったらあいつは必ず俺の事殺すと思ったら、止められなかった」
康樹の手がテーブルの下で震えているのが分かった。
「姉ちゃん。暴力はどこまでいっても自衛にはならないよ。いつか誰かをぼこぼこにする為にしか無いんだよ。それで自分も、きっと打ちのめされるから」

康樹を駅まで送って、1人で部屋に帰った。ダンボールがまだ片付けられないまま、サンドバッグの横に転がっている。窓は全開のままだったから、冷たい風が入ってくる。私は、黒く聳え立つサンドバッグの前に立った。触れる。革の冷たさとざらつきを確かめる。あと一歩の所まで近づき、私は右手で拳を固めて、肘を引く、フォームなんて知らない私が打った突きは、鈍い音を立てて吸い込まれた。揺れもしなかった。まるでボロ雑巾を投げ捨てたような鈍い音、指は震え、手の甲に粘膜を撫でた感触が残った。


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