全ての黒を打ち据えて 下

康樹はそれから何度かうちに来た。大体はバイトで遅くなって、終電で止まる時に泊まりにくるパターンだが、最近は多くなった。
「姉ちゃん、棒でも拳でも、足でもそうなんだけどさ、突きって難しいんだ。こういうのがあればそれなりに分かるんだけど、型とか、シャドーとかじゃ、感覚が分からない。抵抗のないものだと、すり抜けてる感じだし、逆に凄い抵抗があるものだと、こっちが壊れてる、多分ね、刃物とかだともっと分からないと思うよ。柔らかいものは、抵抗無いし」
「打つ、とかは比較的簡単かな。んでも当たる瞬間、あの時だけ意識が飛ぶんだ。それが段々飛ばないようになっていって、その刹那に創意工夫をするようになって、それが強いってことなんだけど、まだ俺は飛んでるなあ。特に人は尚更」

こんな話をしながら、ああでもないこうでもないと、私の家でサンドバッグを叩いていた。重くて、鈍い音の突き、跳ね回るような音の蹴り、長い話をしながら打撃を打ち続ける康樹は、行為の割に快活だった。

私は康樹がいない時に、サンドバッグを叩いた。もはや主従が逆転しているようだった。そう、叩くというのが正しい。私の拳はいくら叩いても抵抗され、時にはその重みに押され、二の腕も前腕もより細くなり、本当に折れそうな気がした。心も折れていた。
腕を振るだけで息が上がり、汗もかいていないのに心が後ろ向きになっている自分を感じた。

その日は最悪の一日だった。バイト先の他の店舗で、客同士が揉めて警察沙汰になった。私はその店舗ではなかったけど、片付けの手伝いに行かされた。テーブルは薙ぎ倒され、食器とグラスが割れていた。飛び散った料理はすでに乾燥しかけている。私は割れた食器とグラスを箒とちりとりで集め、割れてない物だけ選別して配膳台に返すという仕事をした。
吐き気がした。元々そんなに良い店ではないけれど、整然としていた店内が、たったこれだけでまるで地獄だ。ひと悶着がすべて終わった後だったが、そこで働いていた社員さんは皆憔悴していた。

結局これでは営業にならないということで、私は23時に上がった。駅のホームは人がだらだらと並んでおり、混みあっていた。電車内でスマホを開くと、康樹からラインが飛んできていた。今日は早く終わったので、私の部屋に上がり込んでいるらしい。各駅停車だったので、奥の方からぐいぐいと押して出ていく人が何人もいた。私はどうにか身体を捩って逃れたが、押しのける私の方を、誰も見ていなかった。

最寄り駅のホームに出た。乗り継ぎ電車の終電時刻なので、出ていく人々は早足で歩いていく。私はぼんやり歩いている。その時突然、意識が飛んだ、横に身体が大きくぶれて、後ろを見ると、きっちりとした濃紺のスーツ姿の男性が早足で去っていく所だった。私には、抵抗がなかった。エスカレーターに乗って初めて感じる憤りは何の足しにもならなかった。


「康樹、なにしてるの?」

康樹は狭いキッチンで、水を出しっぱなしにしながら、魚を捌いていた。

「ああ、アジ。バイト先でもらってさ、どうしようもないから、宿賃替わりにと思って」

鈍色に光るアジと、康樹が持つ包丁が同じ光を放つ。家には古びた穴開きの三徳包丁しかないはずなのに、どこから持ってきたのか、と思ったがそれは聞かなかった。アジも、康樹の持つ包丁も、同じぐらい生命を感じられない。

「康樹、今でも人を殴りたいって思うこと、ある?」

直球すぎるでしょと笑い、康樹はゆっくりと話し始めた。

「あるよ。ずっと。ちょっとしたことで、悪意を感じること、知り合いとか、友達だったら許しちゃう。仕方ないか、って。でもね、何も知らない他人からの悪意はたまっちゃう。そんな時、殴りたくなる。でも、そんな時誰もいないんだ。だけど悪意はたまる。誰かが優しくしてくれても、それは無理、悪意は、放たなきゃならない。で、物でも人でも、何でもいいから放つ、意識が飛ぶ、ちょっとじんじんしてさ、大きくなる」

アジのえらを指でほじり、えらから切っ先を入れる。話終えたところで、康樹はすとん、とアジの頭を切り落とす。

「姉ちゃん。どうしたらいいのか、俺にも分かんないんだけどね。姉ちゃんが悪意を受けたら、もうそれは始まっちゃってるんだ。忘れることはあっても、無意識ではいられなくなる、それで、放たなきゃならなくなる。嫌だね、こんな話」

夜、暗がりの中で、サンドバッグを眺めた。それは厳然とここにあって、私は、耐えきれなくてそっぽを向いた。あのサンドバッグに体当たりして、粉々に崩れていく私の残骸は、悲しいぐらい汚かった。


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