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すべての花を焼き捨てて(5)

6畳間、ワンルーム。玄関を入ってすぐに、洗濯機。
キッチンには無造作に置かれた、ペットボトルの緑茶。食器は何もない。
部屋の真ん中に置かれたテーブルの上には、100円ショップにあるような鏡、名前も知らないブランドのアイシャドウ、ネイルのトップコート、また緑茶、ヘアアイロン。
僕はベッドまで彼女を運び、身を横たえた。普通、が何なのか知らないが、僕はピンときていない。彼女の部屋のどこを見ても、作り手の意思が分からないし、入るべきじゃなかったと、そう思った。

その夜は帰れなかった。取引先のおっさんは部下に引き摺られるように出て行き、僕の客は潰れて、ソファで寝ていた。五十嵐さんは、店の片付けは良いから、知り合いを連れて帰らして欲しいと、タクシーを配車して、1万円を僕に渡した。

康樹、頼んだ。まあこういう日もある。経験だ。

何とか彼女に肩を貸し、タクシーにぶち込んで、免許証に書いてある彼女の自宅まで車を走らせ、今に至る。午前4時、彼女は唸るばかりでベッドの上から動く気配もない。彼女の肌は、冷たかった。
僕は彼女の鞄を持っていたことに気付きベッドの脇に置く、咄嗟にさっき掠めた香水瓶がはみ出しているのを見つけた。キャップに大きな花弁のついた、ピンク色の香水瓶、デイジー。キャップを外して宙に放つ、はっきり分かった。これは、彼女の匂いじゃない。僕は動きもしない彼女に、何度も香水を放った。水浸しにしてやりたい。はっきりそう思った。僕たちのオリーブのように、彼女が一生懸命この何もない部屋で何かを期待しながら作った容姿を、水浸しにしてやりたい。アルコールと煙草の混じった匂いを、埋め尽くしたい。僕は減らない香水瓶に苛立ち、スプレーの口を外してシンクに残りの液体を捨ててやろうとした。苛立ちは瓶に伝わり、外れなかった。僕は香水瓶を持ったまま、外に出た。
街は青く影がかかっていた。駅に戻るまでの道すがら、公園に入り、コンクリートの面に思い切り香水瓶を投げつけて叩き割った。花弁だけが、割れずに僕の足下まで転がってきた。僕は公園の脇にあった自動販売機で飲む気のない水を買い、一口だけ口をつけて、残りを全て香水瓶の残骸に注いだ。ふりかかる飛沫には、匂いがなかった。
朝が、また来る。

ビニール袋をぶら下げて、僕は姉さんの部屋に向かっていた。まだ帰ってきていないので、何か作って待っているとLINEを入れた。
最近姉さんは黒い服を着る事が増えた。黒いカーディガンだったり、黒いデニムだったり。少し地味ではあるが、大人びている。僕は姉さんの部屋のサンドバッグを強く叩くのをやめた。
五十嵐さんは相変わらずだ。いつも煙草を吸って、こちらの話は、あまり聞いていない。だけど最近は僕に何品か賄いを任せて、横からちょっかいを出してくるようになった。相変わらず、勝手な人だ。
でも僕は、苛立つ事が減った。どうしてかは分からない。嫌いなことは、相変わらず。だけど今は、好きなものについて語ろうと思う。
僕の相棒のグローバルの銀色の牛刀、五十嵐さんのサーベルのような細身の牛刀を構える姿、透けるほど薄い、白身魚のスライス、少し壁際に寄ったけど、相変わらず僕の甘い打ち込みを受けてくれる姉さんのサンドバッグ。雨の匂い。くし切りのライム。

僕は五十嵐さんと一緒に働いて、姉さんの部屋に帰ってきて、そんな毎日を守っていこう。それ以外の全てを、あの時叩き割った香水瓶のように叩き割って。花弁を踏み潰して前に、くだらない朝を、進もう。

サポートはお任せ致します。とりあえず時々吠えているので、石でも積んでくれたら良い。