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森喜朗氏の差別発言への反響について

先日Youtubeでも上げましたが、森喜朗氏の「女性は話が長い~」発言に対する批判の声の大きさに危機感を持っています。そこで、自分の思うところをもう一度整理して文章にまとめたいと思います。

差別を正当化する意図は全くないです。寧ろ逆です。

少しでも森氏を擁護するような発言をすると、差別を容認するのか?という批判の声が飛んでくるので、予め強調したいと思いますが逆です。差別を減らしたいと思っています。そのために書いています。そして森氏の発言は、確かに差別的な発言だと思っています。僕が懸念しているのは、彼を批判することではなく、批判の大きさです。度を越している。

ぼくはあえて問います。

本当に減らしたい差別は何ですか?

女性だからという理由で評価を下げる。女性だから機会を与えない。女性だから役職に就かせない。こうした事をまず減らしたいのではないでしょうか?森氏が批判されていることは、確かに差別的ではありますが、こうした「具体的に女性を排除する行為」ではありませんでした。彼は個人的な感想を発言したに過ぎないのです。

いや、権力者がこんな発言をするのだから、実際にこうした差別的人事も起きているはず。そう思うかもしれません。ならばなおさらその差別的人事を確かめ、批判はそれに対して行うべきです。今回の森氏の発言は、女性理事の割合について言及し、あたかも女性が増える事を好まないように受け取られる内容でした。確かに、会長という権力を持つ者がこうした発言をすることは、上記のような差別が起きている可能性を示唆するものではあります。ここは注視しなければならないでしょう。けれど、それをもって女性を本当に排除しているかはわかりません。これは差別的であり不適切ではあり、立場を考えれば一定の批判を受けて然るべきだけれど、これだけでは実害を与えているには至らず、不快にさせているレベルを超えないように感じます。批判やペナルティは、その行為に対して適切であるべきです。今起きている騒動は、果たして適切なレベルでしょうか?

不快にさせること自体が差別ではないか、という意見もあるでしょう。実際に社会はそのような流れになっていると思います。しかし、待ってください。もし相手を不快にさせることが差別とすぐに認定されるのであれば、あらゆる表現が、誰かを不快にさせる可能性がある限り、差別として糾弾される恐れが否定できないことになります。万人を不快にさせない表現など、まずありえないからです。そして、本当に行われている差別をかえって見えづらくさせ、差別を減らしたいという目的から遠ざかる可能性を懸念します。

加えて、このような言葉狩りのような事がいたずらに広がると、それに対する萎縮と、反発の波が高まることを懸念します。今はそれは見えないかもしれない。こうしたムーブメントに対するフラストレーションの波は、確かに存在するように思います。そしていつかそれが爆発する日が来るような気がしてならない。やや飛躍しますが、米国のトランプ政権を誕生させたのはまさにそういった力ではないでしょうか?そしてそれは新たな差別を生み出す気がしてなりません。今よりもっと深刻な。

森氏の発言が腹立たしいのは分ります。そして彼が差別をしているのではという強い疑念を感じさせるものでもあります。でもだからこそ、そこは丁寧に調べ、実際に差別が行われているのか否かを見極めて、議論すべきだと思います。それで懸念されていたような差別がもし行われていたら、そこをしっかりと、恐れずに批判しようではありませんか。

腹立たしい事でも一寸立ち止まって考える。相手が何故そのような行動をとってしまったかを考える。そして可能の限り対話する。多様性を重んじる社会にとってもっとも大切な事は、そういうことではないでしょうか?

皆さん、今少し冷静になり、考えてみませんか?

大平貴之 




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