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テレカンの功名?

 先日の政府・東京都からの発表で、全面的な在宅勤務が始まり、すべての会議がテレカン(テレカンファレンス)に切り替わっている方も少なくないかと思います。新型コロナウィルス前は「お客様とはできるだけ対面で」という考えが世代的には当たり前だった私も、最近では複数のテレカンツールを当たり前に使えるようになってきました。

 こんなことを言うと笑われるかもしれませんが、私は最近までテレカンをする際に「自分のカメラをオフにして会議をする」というやり方があるのを知りませんでした。もちろんテレビ会議中にマイクはミュート(消音)にすることがあるぐらいは知ってましたが、カメラ自体をオフ(画像なし)にして
テレカンを進めるやり方があるということ。そしてデータ容量を喰わない・自宅(部屋の背景)を見られたくないなどの理由で、そのような環境でやりとりをすることがよくある、ということを全く知らなかったのです。そして最初は違和感があっものの、カメラ(画像)なしのテレカンに徐々に慣れていく中で、逆に「対面のミーティングをしている」時の自分の悪癖にいくつか気づかされるようになりました。

 対面のミーティングと比べて、カメラ(画像)なしのテレカンを「相手の状況・気持ちが読めないので情報が伝えにくい」ということをおっしゃる声を私もよく聞きます。それは一方で、対面のミーティングは、視覚を中心とする感覚情報が非常に多いことを意味しています。相手の怪訝そうな表情とか、重苦しい・とげとげしい場の雰囲気とか。カメラ(画像)なしのテレカンを続ける中、私が気づいたのは「対面でミーティングを行う時に、その場の視覚などの感覚情報に、いかに自分が過剰反応し、本来行うべき議論のクオリティを下げていたか」ということだったのです。

 例えば議論がスムーズに進まない・主張がぶつかり合ってしまっている時などは、本来はそのテーマ・議論内容の何をクリアーすべきかを構造的・論理的に吟味し、進めることが先決のはずです。ただ対面ミーティング時は、物理的に近くにいる相手の表情などが気になり、コメントで忖度してしまって伝えるべきことが曖昧になったり、逆に感情的になって相手のコメントを抑え込んでしまったりとか。。。「過剰反応してはいけない」と思いつつ、ついつい感覚・感情に流された議論を、私(そして周囲にいる多くのビジネスパーソン)がしてしまっているように思います。それがカメラ(画像)なしテレカンという「まったく視覚情報・空間情報がない」そして「テレビを介して行われる、いわば同席者との間接的な距離感覚」での会議では、不必要な反応が抑えられ、とても冷静、俯瞰をとらえ、ロジカルに議論が進められる傾向があるように思います。

 具体的に私がテレカンで学んだ私の悪癖は以下のようなものです。
1.無駄な内容をしゃべりすぎ
 :テレカンは音声上で発言が重なることもあり、自然と自分が発言する際
  に時に周囲へ配慮することが求められます。そうすると不必要な発言は
  できるだけ回避するようになるのですが、そうしたとき、対面時の私の
  発言量がいかに多かったかを思い知らされました。特に議論がうまく進
  まず、何とかペースをつかもうとしている時の発言量は「騒音」レベル
  だったな。。。と反省させられます。
2.自分で答え(仮説を含め)を出しすぎ
 :上記同様、周囲への配慮が高まることで、ある人がしゃべり続けている
  ことへフォーカスが当たります。何回かテレカンをやっているうちに、
  私も「会議で自分ばっかり、喋っている」ことに気づきました。これは
       よくないと思い「何で私ばかり喋るのか」を分析したところ、私が会議
  の目的に到達するための「答え(仮説)」を出してしまい、周囲の「答え
       (仮説)」を聞いたり、投げかけたりする量が圧倒的に足りなかったとい
  う状況があったのです。

 自分のことを「会議をうまく回している」「質問を適切に投げかけている」と認識していらっしゃるビジネスパーソンの方、結構いらっしゃるのではないかと思います。そして恥ずかしながら自分も「結構イケてるんじゃないかな?」と思っていたのですが、カメラ(画像)なしのテレカンでその認識は粉々に砕けましたw。ただ一方で「ここで気づけて・認識を新たにできてよかったな」と思う次第です。昨今の在宅勤務当たり前の状況を「不自由」「効果効率のダウン」と捉えるのは無理のないことです。ただ一方、今までになかった体験をできることで、自身の誤った認識を正しくし、さらに進んでいける機会という側面もあるのではと思っています。

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