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自#123|勢津子おばさんの青春物語~その16~(自由note)

 勢津子さんは、家政学部二類の化学専攻でしたが、経済学、哲学、倫理学、宗教哲学、教育学と云ったリベラルアーツ系の必修科目の単位を取得する必要があります。勢津子さんが、もっとも苦手だったのは、高橋誠一郎先生の経済原論。高橋先生は、母校の慶應義塾の経済学部長を務め、戦後は小泉信三先生に代わって塾長代理を引き受け、吉田内閣では、文相になり、日本芸術院院長もお務めになった、著名な先生です。帝大出ではなく、慶応を卒業されたあと、イギリスに留学された、お洒落でスマートな、まさに絵に描いたような慶応ボーイで、日本女子大での学生の人気No1の先生だったそうです。二類以外の学生も、盗講に来るほどの名講義なんですが、勢津子さんは、経済学には興味がなくて、さっぱり理解できなかった様子です。このただ苦痛なだけの経済原論の時間は、ひそかにドイツ語の単語帳を見たり、化学の周期律表を眺めたりして、時間をつぶしていたようです。

 年度末の試験は、高橋先生の著書に、さあっと目を通して受験し、成績は可だったそうです。可でも一応、単位は取得できます。が、クラス担任(日本女子大ではリーダーと言ってます)の吉岡先生から呼び出しがありました。もう一度、ちゃんと準備して、再試験を受けて、成績が良ければ、可が良になります。
「もう一度、お受けあそばせ。もしも、興信所から調査が来た時、ハァ、全部、優と良でございますと言いたくても、たったひとつの可があるばかりに、言えないではありませんか。ご縁談に差し支えますよ」と、説得されます。勢津子さんは
「もう一度、試験を受けるために経済原論の勉強をするのなら、その時間にドイツ語の単語のひとつも覚えた方が、役にも立つし、楽しいし、経済原論が可であるのが気に入らないと云うような人とは、結婚しなくても結構です」と反論して、聞く耳を持たなかったようです。ある意味、自分を持っていて、立派です。卒業後、何年かして勢津子さんは結婚しますが、相手は慶応の経済学部出身だったそうです。
「いいですか。私は過去に経済原論が可だったのですよ。それを、ご両親は承知なんですか」と結婚前に、再三、念を押したそうです。が、経済原論の可は、格別、マイナス要因にはならなかったらしく、無事、結婚されています。

 卒業後の進路として、担任の吉岡先生に、日銀に就職するように勧められます。日銀でしたら、嫁入り前の就職先として、申し分のない環境です。多くの人が、日銀のエリートと結婚し、落ち着きます。が、経済原論が可の勢津子さんには、日銀への就職は、絶対に考えられません。つまり、経済原論の可は、他人にとっては、さほどのマイナス要因ではないんですが、自分自身の人生の幅を狭めてしまう、マイナス要因として作用すると云うことは言えると思います。

 卒論は、一類で小児保健を教えていた長竹正春先生の指導を受けて、子供の成長について研究します。日本女子大には、幼稚園、小学校、付属高等女学校、大学と、下からストレートで上がって来た学生がかなりいます。一貫教育を受けた学生の身体検査の記録は、すべて残っています。勢津子さんは、一貫教育を受けた方の身長や体重について、一人ずつグラフを作ります。結局、小さい頃から小さい人は、大人になっても小さいし、大きい人は大きいと云う風な結論に達したようです。資料の集め方、グラフの作り方、平均値の取り方、グラフの読み方などの基本の作法を学んだ様子です。勢津子さんは、女子の成長について調査したわけですが、日本医大の若い先生が、男子の成長について調査されていて、日本医大の若い先生に、勢津子さんは、手書きでコピーを拵えて、自分の調査の記録を、渡してあげたそうです。手書きでコピーを拵えるだけでも、大変な作業量だと想像できます。動いたり、作業をしたりすることが、何でもないと云う、おしんのような根性を、勢津子さんにも感じてしまいます。

 第四高女時代は、たっぷりお弁当も食べ、家に帰れば、おやつが待っていました。太平洋戦争が始まってからは、食料事情が厳しくなって行きます。卒業生が、母校で奉仕活動として行っている日本女子大の安くておいしい食堂は、勢津子さんたちが入学して、3ヶ月くらいは営業していたんですが、その後は、閉鎖されてしまいました。大学の近くに和菓子屋あって、時々、そこに餅菓子を買っていたそうですが、1年生の終わりくらいには、そこも閉まってしまいます。当時、西生田のキャンパスも整備されつつあって、3、4年の主な授業は、西生田で受けたそうです。西生田の駅前に、登坂屋と云う食料品や雑貨などを売っている「なんでも屋」があり(私の子供の頃も、すぐ近所にこういうなんでも屋がありました)、そこで、桃、卵、さつまいもなどの食料品が、購入できた様子です。もっとも、その内、ここでも買えなくなり、公定価格の4倍、5倍もするやみ市に行かざるを得なくなります。地方の方が、食料事情は良かったので、大学を中退して、地方に帰る人も多かったそうです。

 勢津子さんたちは、西生田の近くにある細山と云う集落の農繁期に設けられた託児所や共同炊事場に、交代で手伝いに行ったりします。赤ちゃんをおんぶして、炊き出しの手伝いなどをしていたわけです。鎮守の森には、分裂症の女性がいて、汚い着物に縄の帯を締めて、口の中でブツブツとつぶやきながら、髪の毛のシラミをつぶしていたそうです。戦争中も、戦後の昭和20年代も、いたるところで、こういう男性や女性を見かけたと、勢津子さんは書いています。精神病院も不備、自宅に座敷牢を作るゆとりもなくなっていたんです。私が子供時代を過ごした昭和30年代も、こういう分裂症の人は、割合、頻繁に見かけました。昔は良かったと、年寄りたちは過去を賛美しがちですが、客観的かつ冷静に考えてみると、昔より今の方が、はるかにいい時代だと、私は思っています。

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