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自#197|音楽の次に洋服が大切だった(自由note)

 アートディーラーのシャーロットは、week end、週末の金曜日の夜、仲間三人が集まるクラブ(カオス)には行かず、出版業界の大物のカポーティ・ダンカンとデートをします。オペラを観に行ったんだろうと思いますが、劇場から出て来たsceneを見ると、シャーロットはイブニングドレス、カポーティはタキシード姿でした。

 私は、タキシードを着たことがありません。高2の頃、ポールニューマンがタキシードを着ている姿を映画雑誌で見て、社会人になって、こじゃれたパーティとかに招待されたら、タキシードの上にポロコートなどを羽織って、ワインにリボンをかけ、そのワインで、訪問先のドアを、コツコツと叩いたりするんだろうなと、勝手に予想していました。が、結局、タキシードやポロコートとは、無縁の人生を過ごしてしまいました。

 大学を卒業して、役所(高知県庁)に勤めていた頃は、スーツを着ていましたし、コートも持っていました(所有していたのはステンカラーコート、トレンチコート、ランチコート、あとダッフルコートです)。が、タキシードやポロコートが、必要だと云うsituationに置かれることは、四国の片田舎では、あり得ませんでした。ワインも、フランス料理の店が、一店舗もなかったので(イタリア料理店が二軒だけありました)親しむchanceには、恵まれませんでした。ワインに親しむ前に、日本酒力を上げておかないと、日本酒と肴にうるさい諸先輩方と、上手くお付き合いすることができません。チューハイの類のアルコール飲料は、すでに存在していましたが
「そんな、ただ酔うだけの酒は、邪道じゃきに」と、先輩に一蹴されました。至言だと思います。日本人でしたら、まず、米を使った日本酒を極めるべきです。

 今、落ち着いて振り返ってみると、早稲田の学生時代も、高知県庁に勤めていた頃も、そこそこお洒落をしていたと思います。服装に気を遣わなくなったのは、三十歳で教師になってからです。教職について、同時に、アルコールも飲まなくなりました(まあ、30代は、まだ、ごくたまに飲んでいました)。教職と云うのは、服装とかアルコールとかが、ほとんど何の威力も持たない職業です。外見ではなく、中身で勝負すべきworldです。外見を整えることも、ある程度は大切ですが、外見よりも、自分自身の教養を深めたり、精神力を鍛え上げたりすることの方が、はるかに価値の高いことですし、大切です。

 私は、若い頃、禅寺で坐禅をしていました。禅の世界は、外見ではなく中身がすべてです。禅と並行して、お茶の稽古にも通っていました。お茶の世界と云うのは、あれはやはり見た目が90パーセント以上です。お茶の稽古を通して、茶道の本質に迫ることは、正直、ラクダが針の穴を通るよりも難しいと、私なりに見極めて、ベーシックな免許状だけを取得して、お茶はリタイアしました。免許状を取得すると云った具体的な、見た目のある形を通してじゃないと、お茶の世界でのpower、権威、Identityなどは、担保されません。

 教職の仕事に従事していても、本当はもっと服装に気配りすべきでした。が、汚いタオルを首に巻いて、赤や黄色のハデなウィンドブレーカーを着た、ヤバそうなおっさん(後、じじい)と云う形で、私の見た目が、いつの間にか決定されてしまっていました。決定されてしまうと、その型に従っていた方が、こちらも生活し易くて、気楽です。

 中2、3の頃は、お洒落でした。洋服と云うものが、もしかしたら音楽の次に大切なものかもしれないと、思っていたくらいです。私は、IVY(アイビー)の洗礼を受けた、最後くらいの世代です。私が中2の時、IVYのバイブルと言われた、「Take IVY」と云う写真集が出ました。この「Take IVY」を本当に、文字通り、ページがすり切れるくらいまで、繰り返し捲って眺めました。完全に身についていたIVY スピリッツは、いつの間にか枯渇し、消滅してしまいました。が、「三つ子の魂百までも」です。Sex and the Cityを見て「うわぁ、普通にナチュラルショルダーなんだ」と、プチ感激しました。

 東海岸と西海岸とは、いろんな意味で、違います。もっと具体的な地名で言うと、ニューヨークとロサンゼルスは異なっています。映画だって、東はインディペンダント系ですが、西はハリウッドです。ヒップホップに限らず、音楽も違います。西は、基本、聞き易くメロディアスな売れ筋路線です。服装は、東はやはりアイビーリーガーのトラッドが、根底にあります。西は、サイケデリック、ヒッピー、セレブ御用達系、ロイヤル系と、多種多様です。

 暇と余裕ができたってことが、大きな理由だと思いますが、音楽の次に洋服が大切だった、中2、3時代のことを、今回、Sex and the Cityを見て、リアルに思い出しました。中1の頃は、音楽がすべてでした。中二病時代と云う言葉がありますが、私にとって純粋な中二病時代は、中1の時です。中2は、音楽から服装、そしてライブハウスの文化と云った風に、自分の興味関心が、多方面に広がり始めた時期でした。ウチは、貧乏でしたが、その割には、エンゲル係数は高くなく、母親は収入の多くを費やして、着物を買っていました。自分の着物にお金をかける親でした(子供ファーストではなく、完全に自分ファーストな親でした)。私が、洋服が欲しいと云うと、そう文句も言わず、ごくたまに買ってくれました。ごくたまに、sometimesと云うことも、大切です。しょっちゅうだと、ありがたみがなくなります。レコードは、お年玉などを集めて、自分のお金で買っていましたが、服は母親が、買ってくれました。

 最初に購入した、それなりに値段の高かった服は、茶色のツートンのスタジアムジャケットです。値段は6500円。ブランドはマックレガーでした。薄いブルーのVANのスニーカーを履いて、ボトムはエドウィンのブラックジーンズ。インナーは、普通の水色のオックスフォードシャツ(靴と色を合わせました)。その上にスタジャンを羽織って、秋風の吹く、四国の田舎の繁華街に繰り出しました。あんな片田舎でも、お洒落をして外に出ることは、わくわくするようなactivityでした。日本でクラブ文化が盛り上がっていた時が、90年代の半ば過ぎくらいにあったんですが、その頃、「ぴしっとスーツを着て、週末にクラブに出かける、これが最高に幸せな時間です」と、当時高2だった、ダンサーのKくんが、私に教えてくれました。その言葉を聞いた時、「あっ、自分にもそんな時代があったな」と、ほんの一瞬、思い出しました。中2、3の頃は、私にも、服装をぴしっ決めて、外に出る機会が、sometimes、ありました。教師になってから、それがもう、完全に皆無になってしまいました。30代、40代の頃は、もう少し、お洒落をしても良かったなと、思わなくもないです。

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