思#004|中3の5月にヤンキーを引退した(思い出note)

 私は中学生の頃は、基本、ヤンキーで、中3の5月にヤンキーを引退しました。ヤンキーの社会と云うのは、自分の意志の力だけで、簡単にリタイアできるような、ヤワな世界ではありません。リタイアするとなると、それ相応の犠牲を払う必要があります。

 私の立ち位置は、start時点から違っていました。中2の9月に市内で一番荒れていたN中から、J中に転校しました。転校した時、定番の儀式(体育館の裏で、その学年のNo3くらいの生徒と、取り敢えず、バトルをするみたいな)めいたものは、特に何もなく、N中からの情報も伝わっていて、いきなり中2のヤンキーグループの幹部になってしまいました。そこにしか、自分の居場所はないし、まあ、これはこれで自然な流れだと、あっさり受け止めました。中2のヤンキー仲間には、音楽好きが多く、すぐに仲良くなりました。一種、特殊な学年で、まあ、ヤンキーとしたら落ちこぼれたちでした。一個上には、きちんと番長グループの組織がありました。そういうものは、作りたくないし、自由に事を荒立てず、なあなあで行こう的なノリでした。一個下は、もう組織ができていました。中3の番長たちは、中2のヤンキーたちは、とんでもなくヘタレで、どうしようもないクズたちだと、多分、思っていました。が、荒れたN中から転校して来た私は、案外と強気で、一個上の番長のKさんに対しても「Kさんとの二人だけの勝負だったら、オレは絶対に負けませんから」と、明らかに態度でも示し、言葉に出していました。先輩に対するリスペクトは足りなかったし、タテの秩序を大切にするヤンキーの世界では、私の姿勢は、やはり限度を超えていました。

 Kさんたちが卒業する直前、私は、Kさんに学校からかなり離れた山の上に呼び出されました。まあ、どういうことになるのかは、予測できていました。3年の女子の私をひいきにしてくれたSさんと先輩が「取り敢えず、行かないで、バックレて、1ヶ月くらい隠れときなさい」と、忠告してくれましたが、隠れるとか、逃げるとかってことは、それまでの人生で一度も考えたことはないし、覚悟もしていたので、指定された場所に、指定された時刻に出向きました。Kさんが一人でも、こっちは手を出さないつもりでした。が、J2中、S中、A中などの番長グループが勢揃いしていました。
「はぁ、こんな大人数を集めて、オレ一人をボコるとかって、何だよ」と、正直、あきれました。Kさんは、手を出さず、他校の副番長格の4、5名が私をボコりました。顔は、歪みました(今でも鼻が少し曲がっていますが、それはこの時の後遺症です)が、腹は、内臓が破裂しない程度に、手加減して蹴っていました。殺しちゃ行けないと、まあ常識的に考えたわけです。ふらふらはしていましたが、何とか、自力で立てました。
「コレで終わりですね。オレは、もうヤンキーはやめます」と、Kさんに伝えました。ヤンキーをリタイアするための儀式として、ボコられに行ったようなものです。

 山から降りて来る最後のとこが石段でした。その石段の途中の段で、足を踏み外して、下まで転げ落ちました。その時、頭を強く打ちました。もっとも、意識は、途中でなくなっていて、次に気がついた時は、病院の集中治療室でした。頭を強く打っているので、強烈な頭痛はしました。結局、2ヶ月くらいその病院に入院していました。脳波の検査などは、何度もして、異状なしと云う診断でした。異状はなかったのかもしれないし、あったのかもしれません。とにかく、それまで住んでいた世界と、頭を打ってからの世界とは、違って見えました。ヤンキーは引退するつもりでしたが、もうヤンキーなど、どうでも良くなりました。それまでは、いつ死んでもいいと、本気で思っていましたが、考え方が変わりました。間違いなくどうせ死ぬし、生きている内に何かできることをしたいと、思うようになりました。小1から、中2の終わりまで続いた虚無的な時代が、終わったと言ってもいいのかもしれません。いつ死んでもいいと云うパンク時代だったからこそ、UKロックが、あれだけ心に突き刺さったのかもしれません。音楽に対する熱も、中1、2の頃ほどはなくなりました。

 明らかにボコられているので、病院に警察の少年課が、調書を取りに来ました。が、
「覚えてません。階段で転びました」と、ボコられたことは、最後までシラを切りました。Kさんたちが怖かったからではありません。そんなことを、喋ったりしないのが、この世界の仁義です。私は、ヤンキーの世界の仁義を守って、最後までシラを切り、筋を通しました。まあ、こんなこと、わざわざ書くまでもない、当たり前のことです。

 が、S中の元副番長が、別件で逮捕された時、自分の罪を多少なりとも軽くするために、聞かれもしないのに、山の上で、J中の2年生をボコボコにしたと、自白したらしいです。ヤンキーの風上にも置けないクズです。Kさんと、私をボコった4、5人が病室にやって来て、私に謝罪しました。私は、「何のことか解りません。ボコられた記憶はありません。自分で階段から転げおちました」と、最後まで言い張りました。「後で、謝罪とかに来るぐらいだったら、最初から、おとなしくしてろよ」と毒づきたいとこでしたが、我慢しました。

 5月のゴールデンウィーク明けに退院しました。ヤンキー仲間のYは、中2の冬、松山の少年院に行ってましたし、Tも、私が入院中に、矯正教護院に送られていました。J中は、2年生が仕切っていると聞かされました。まあ、何がどうなろうと、私にはどうでもいいことです。
 シューベルツの「風」と云う歌が、大流行していました。

 人は誰もただ一人旅に出て
 人は誰もふるさとを振り返る
 人は誰も人生につまずいて
 人は誰も夢やぶれ振り返る

 私は、邦楽にはほとんど興味はなかったんですが、いい歌だと思いました。ヤンキーを続けていたら、30歳までには、確実に死にます。いつ死ぬかは解らないとしても、将来は、広がったと感じました。ヤンキーを引退して、生まれて初めて、自分の人生を、これからどうして行けばいいのかを、考えました。どうなって行くにしても、学力は必要だと理解しました。ヤンキーをやめたら、友達とかは一人もいませんし、めっちゃヒマになって、まあ、それが最大の理由で、勉強をし始めたってとこはあります。もちろん、独学です。勉強は、(誰でも)学校に行かなくても、自学自習でできます。 

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