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自#176|人生のピークを40歳くらいに持って来る(自由note)

 国境なき医師団(MSF)で、看護師として活躍された、白川優子さんのインタビュー記事を、週刊文春で読みました。MSF(Medecins Sans Frontieres)は、1971年、フランス人医師らが設立した、医療制度が不十分な国や被災地で、医療援助を行う国際的ボランティア団体です。

 白川さんは、東京生まれで埼玉育ち。地元の中学校を卒業後、川越商業高校に進学します。高校進学時点で、将来の目標や夢が、明確にあったわけではなく、川越商業に進学したのは、「地元で制服が可愛いと有名だったから」です。

 私は、学校では、4階の社会科準備室から、2階の3年の教室に降りて行って、授業をしています。私が降りて行く時、3年生が、選択物理の授業を受けるために、4階に上がって来ます。4階にいる1年生が、2クラスほど、LLやPC教室、家庭科室などに移動をするために、階段を降りて行きます。1年生は、とんでもなく元気です。それこそ、箸が転んでも可笑しいと云う勢いで、賑やかにお喋りしながら降りて行きます。3年生は、静かです。全体の基調として、3年生はdarkで、暗い感じです。この差が、何故、生まれるかと云うと、高校1年生は、将来の人生のことを、まだまったく考えてなくて、happyだからです。その日、その日を、面白ろ可笑しく、powerfulに生きています。3年生は、当然のことながら、将来のことを考えています。将来のことを考えて、今は受験勉強をやるしかないと覚悟しています。高1と高3を比較すれば、before・afterの現象を、垣間見ることができます。before・afterの分岐点は、高2の3学期のどこかです。

 白川さんも、おそらく高2の3学期くらいに、看護師になると云う友達の決意を聞いて、心を動かされ、高校卒業後、定時制の看護専門学校に進学し、病院に勤めながら勉強をします。病院で働き出して、すぐに「これは自分の天職かもしれない」と感じた様子です。看護学生の仕事は、患者さんの身の回りのお世話です。お風呂や食事、トイレの介護、爪を切ったり、体を拭いたり、その一つ一つにやりがいがあって、家族の方々との触れ合いも楽しかったそうです。看護専門学校で、看護はアートだと習います。たとえば目の前に、ご販が食べられない高齢の患者さんがいれば、お医者さんは、まず点滴をします。看護師は、食事のメニューを変えてみたり、介助の仕方を変えたり、息子さんと一緒に食事を摂ってもらったりと、工夫します。そうすると、これまで食べられなかったおばあちゃんが、笑顔で食べられるようになったりもします。

 白川さんは、看護専門学校卒業後、埼玉県の病院に勤務します。1999年、MSFが、ノーベル平和賞を受賞して、そのニュースに感銘を受け、高田馬場にあったMSFの日本事務局の説明会に出向きます。MSFには、英語ができないと参加できません。当時、白川さんは、30歳間近の年齢。父親には
「結婚は? 子供はどうするんだ? 夜勤があるんだろう。結婚したら、旦那や子供の飯は、誰が作るんだ?」と、ことあるごとに言われていたそうです。お母さんが背中を押してくれます。
「あなたの気持ちは、10年後も変わらないでしょう? 人生のピークを40歳くらいに持ってくればいいじゃない」と言ってくれたそうです。「人生のピークを40歳くらいに持って来る」と云うフレーズは、DNA的にも、男達よりpowerfulで逞(たくま)しい女性だからこそ、言えるカッコいいセリフです。

 白川さんは、英会話学校にしばらく通った後、オーストラリアに留学し、看護師の資格も取って、メルボルンの病院に就職します。オーストラリアの永住権も取得し、看護師の給料の高いオーストラリアでは、3ベッドルームとキッチンのある広々としたフラットに住んで、快適な暮らしをしていたようです。が、40歳のピークを迎える前に、「やっぱり原点に帰ろう」と決心して、オーストラリアから日本に帰国し、MSFの面接を受けます。英会話は自由自在にできます。海外の病院の勤務経験もあります。キャリアとしては、申し分なしです。

 まず、内戦が終結した直後のスリランカに派遣されます。派遣先は、政府が運営している病院で、MSFが担当するのは、医師の足りない救急と産婦人科と外科。白川さんは、スリランカでは、シンハラ系とタミル系が、長い間、争っていて、つい最近まで激戦地だったと云った歴史などは、まったく知らなかった様子です。自分が全く知らない場所で、これだけ多くの人が苦しんでいたんだと、衝撃を受けたそうです。政府からの物資の支給も少なく、一人一人の医師や看護師の価値がとても高く、医療の足りない地域の現実を間近に見て、「これがMSFの世界なのか」と、MSFの一員として働く自分の存在の意義を、感じたそうです。

 白川さんは、オペ室で働く「手術室看護婦」としてMSFに参加しています。スリランカは、ウォーミングアップ&訓練の場で、その後、激戦地のシリアに派遣されます。シリアは、リアルタイムで、病院のすぐ傍で、紛争が起こっています。病院から50メートルほど離れた所に、医師や看護師の住まいをMSFが用意してくれているんですが、そこに往復する時間的な余裕もなく(外に出ることが危険だと云うことも考えられます)みんな、病院で寝泊まりしています。白川さんは、オフィスの一画にマットを敷いて、休息していたようです。カンヌでグランプリを取った「マッシュ」と云う映画に、激戦地(朝鮮戦争)のオペ室のsceneが出て来ます。一種の極限状態です。ああいった極限状態で、人間は如何にして、正気を保てるのかと云った風なことを、思ってしまいます。

 白川さんは、シリアには二度派遣されています。2回目は、あたり一面に、黒地に白のISの旗が翻っていたそうです。ISの武装兵士が、いたる所にいます。当然のように、ISを攻撃するための、空爆も頻繁に起こります。白川さんは、本物の戦争をシリアで経験します。

 白川さんは、現在、MSFの東京事務局で、後進を育成する仕事をしています。1973年生まれの白川さんは、現在47歳。人生のピークの40歳を、MSFの現場で、過ごすことができたわけです。それが、幸せだったかどうかは、判りませんが、普通の人には、絶対に体験できない、かけがえのない貴重な経験であったことは、間違いないと思います。五十路が近くなってしまうと、激戦地のオペ室で、看護師として仕事をすることは、体力的にきついだろうと想像できます。

 白川さんが働いていたシリアのMSFの病院の見取り図が、掲載されています。オフィスも、病室も、オペ室も、蘇生・リカバリー室も、とんでもなく密な状態です。第一次世界大戦の時は、戦争で亡くなった人より、スペイン風邪で、死んだ人の方が多かったと言われていますが、正直、パンデミックが発生したら、この病院は、ひとたまりもないな(おそらく一人残らず、全員、感染します)と、思ってしまいました。

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