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自#121|勢津子おばさんの青春物語~その14~(自由note)

 私は、1学期の最後の授業で、AO入試などで必要とされる、自己推薦書の書き方について、簡単に説明しました。まず、最初に高校時代に、自分が成し遂げたことを書きます。次に入学を希望する大学の学部学科で、何をやりたいのかを、綴(つづ)ります。授業のシラバスなどは、ネットで検索できるので、二つくらい、勉強してみたいコアな授業を決めて、シラバスの内容に沿って、具体的に記述します。最後に、高校・大学で学んだことを生かして、将来、自分がやりたいことを書きます。

 高校時代に成し遂げたことがAだとして、大学で学ぶことはB、将来の自分の仕事をCだとすると、AとBとCとの三者がリンクするように書きます。つまり、人生のテーマと方向性を、はっきりと打ち出して、まっすぐな、ブレない自己推薦書を書くと云うことです。実際の人生は、おそらく誰の人生も、ブレブレですが、文章の形で提示するとなると、そんなブレブレの中途半端な文章は、意味を持たないし、無価値です。こうありたかった、こうあるべき、こうありたいと云う、つまりドイツ語で言う所のゾレン(当為)、まさにそうあるべき人生について、明確なプログラムを拵えて、自己推薦書に書き綴る必要があります。つまり、自己推薦書は、創作です。今のとこ、嘘だと言っても過言ではありません。が、情熱と信念があれば、嘘から誠は、必ず導き出されます。

「勢津子さんの青春物語」を、3回、読みました。第四高女時代がA、日本女子大時代がB、就職した糧秣廠時代がCとすると、A=B=Cでは、決してありません。自己推薦書のような人生を歩むことは、誰もできません。そもそも、人との出会いは、偶然です。この偶然の出会いが、人生を大きく左右します。Cの部分の糧秣廠の勤務は、勢津子さんの希望で決定したわけではありません。いわば赤紙(実際はピンク色だったそうです)で招集されたかのような流れで、動員されて糧秣廠で仕事をすることになります。

 勢津子さんは、第四高女の1年生の時、イジメを受けています。理由は、simpleで、世田谷育ちの都会の女の子を、八王子の田舎の子供たちが、受け入れなかったと云うことです。こんなことは、今も昔も、掃いて捨てるほど、普通にあります。大人の保護者や先生が、イジメの根絶について、いくら声高にアッピールしても、イジメはなくなりません。強い者が勝つ、これが生物界の本能に基づいた掟です。子供は、小さければ、小さいほど、本能に忠実に従います。勢津子さんのAとBとCとは、リンクしてませんが、リンクさせようと、ほとんど無意識の内に、けなげに努力されています。純粋で無垢な勢津子さんのひたむきな姿勢が、ストレートに伝わって来ます。それが、この本の一番の魅力です。

 日本女子大の入学式には、父親が付き添いで一緒に来ます。勢津子さんのお父さんは、東大の農芸化学科を出た研究者です。ビタミンBの発見者の鈴木梅太郎博士の門下生でした。つまり勢津子さんのリケ女のDNAは、お父さんからの直伝です。父親に、家庭内での権力があれば、勢津子さんは、医専か薬専にすんなり入学できていたのかもしれませんが、家庭内の権力は、父親ではなく母親が持っていたと云うことです。母親が絶対的な権限を持っていると云うケースは、今も昔も、枚挙にいとまないほど沢山あります。

「気の進まない娘を女子大にやるについて、父親は多少の責任を感じていたのかもしれません」と、勢津子さんは書いています。勢津子さんの服装は、紫の地味な訪問着に紺のはかまだったようです。
「日本女子大からは、女の科学者が沢山育っているのだから」と、お父さんは、勢津子さんを慰めます。もっとも、日本女子大を卒業しただけでは、学者にはなれません。その後、アメリカの大学に留学して学位を取るか、進学できる日本の大学(北海道帝大や東北帝大など)に進んで、勉強をする必要があります。日本女子大を明治時代に卒業して、アメリカに留学し、立派な先生になられて、その後、母校に戻って来ている方もいます。こういう先生は「大きい先生」と呼ばれていました。もっとも、大きい先生は、奉仕に近い待遇で、仕事をされていたようです。

 入学式が行われた講堂には、「信念徹底」「自発創生」「共同奉仕」の三枚の額がかかっています。創立者、成瀬仁蔵先生が書いた額です。成瀬仁蔵は、安政5年周防に生まれます。大阪で受洗した後、アメリカのアンドーバー神学校、クラーク大に留学。帰国後、女子教育の必要性を力説して、明治34年、日本女子大を創設します。アメリカで教育を受けた成瀬仁蔵は、たとえば、バッサー女子大のような、リベラルアーツで人間性を陶冶する大学を目指そうとします。ただ、人間性を陶冶し、その後、職業婦人になるのではなく、あくまでも最終の着地点は、良妻賢母だったと思われます。良妻賢母こそが、女性の幸福にダイレクトに繋がっていると云う思考の枠組みは、おそらく戦前は、微動だにしなかった筈です。

 府立第一、第三、神奈川県立横浜第一、兵庫県立神戸第一と云った高女は、第四よりもはるかに格式も高く、学力レベルも上だったらしく、日本女子大の英語、数学の低いレベルとゆるいカリキュラムに、不満を持っていた生徒もいたそうです。逆に学力の低い高女から入学した人は、授業でふうふう苦労していて、足並みは全然、揃ってなかったようです。

 良妻賢母を目指していますから、花嫁修業のような授業もあります。料理は講義と実習が毎週4時間。つまり毎週、1回は確実に調理実習があります。小笠原流の礼法も、週に2時間。村田志賀さんと云う小笠原本家の60歳くらいの先生が「お見合いの時のお服装は、紫の訪問着に袋帯。お膳は本膳で、三の膳まで」と云った風なことを、教授するのだそうです。

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