自#091|取り敢えず、東洋大の印哲に行けと、昔は言ってました(自由note)

 石原慎太郎さんのインタビュー記事を読みました。石原さんは、現在87歳。7年前に脳梗塞を起こして入院されています。一時期は、文字と云うものをすべて忘れてしまっていたそうです。今は、毎日「今日も無事に一日が過ぎた」と振り返り、就寝中に急死した友人のことを脳裏に描きながら「今晩あたり、寝ている間に死ぬかな」と、目を閉じるそうです。「こういう実感は、死線を越えた人間でなければ、味わえません」と、語っています。

 私は、死線は越えてませんが、死線の手前のギリギリのとこまでは、4回目の肺炎で倒れた時、辿り着いていたと思っています。熱は下がって、小康状態でした。高熱が出ている時は、まだ、死は身近には来てません。身体は、精神力とエネルギーの全部を使って、病気と闘っています。熱が下がって小康状態になった時、生きていることと、死ぬことの区別(差別)はないと、ごく自然に、思ってしまいました。これまでの人生で、何回か、こういう無差別感にとらわれたことがあります。自ら死のうと思ったことは、一度もありませんが、無差別感が襲って来た時、死は自分のすぐ傍にあると感じます。焦燥とか不安と云ったものはありません。どの道、人は死にます。それが、今か、あるいはもう少し先か、それだけの違いです。もう少し先と言っても、それは瞬時です。今と、もう少し先との区別(差別)は、ほとんどないと理知的にも、充分、理解しています。

 石原さんは、左手に麻痺が残ったそうです。右手は使えて、ワープロのキーボードを叩いて、短編小説をお書きになりました。つまりこれは、死線を一度越えた人間が、復活したと云うことです。
「意識が消滅するのですから、死ねば虚無です。人間が喜んだり、愛したり、恐れたり、怒ったりするのは、全部、意識の産物です。意識がなくなってしまったら、自分がどこにいるのかさえも、解らない。死んだら何もないのです」と、石原さんは仰っています。つまりこれは、アサンガ(無着)の云う唯識の考え方です。

 山川出版の詳説世界史Bの教科書には、ブッダの考えは「生前の行為(業)によって、死後に別の生を受ける過程が繰り返されるとする、輪廻転生と云う迷いの道から、人はいかに脱却するかという解脱の道を説いた」としか書かれてません。ブッダは、すべてのものは固有の実体を持たず(諸法無我)、絶えず消滅変化する(諸行無常)だと看破されていたんです。が、世界史の教科書ですから、そこまで踏み込む必要はないと思います。踏み込むとしたら倫理の教科書の方です。倫理の教科書には、「諸法無我」も「諸行無常」も、太いゴシック体で表記してあります。

 が、世界史の教科書は、「クシャーナ朝と大乗仏教」と云う見出しを掲げた箇所で「すべてのものは存在せず、ただその名称だけがあると説いた竜樹(ナーガールジュナ)の空の思想」と説明しています。

「諸法無我」「諸行無常」と云うのは、つまり「無」だと言うことです。竜樹は、つまり「無」を「空」だと言い換えただけです。竜樹の「空」だけを、いきなり取り出して来ても理解できません。と云うか、高校生は、こういった形而上学は、そもそも理解できません。理解できないからこそ、平穏で無事、息災に暮らして行けると云う逆説も成り立ちます。

 が、ごくたまにですが、こういった形而上学を理解したいと考える生徒が出て来ます。私の経験ですが、女子にはいません。今まで出会ったのは、全員、男子です。どれくらいの頻度で登場するのかと云うと、5、6年に一人くらいです。形而上学につかまったら、人生を棒にふります。普通の幸せとは、縁遠い生活になってしまいます。が、まあ、たとえ人生を棒にふったとしても、本人が、どうしてもそれを、やりたいわけですから(何度か反対した後に)最終的には、背中を押してあげます。

 取り敢えず、東洋大の印哲に行けと、昔は言ってましたが、今は印哲学科ではなく、東洋思想学科です。東洋大で形而上学をやることを選択した時点で、開き直って、人生を棒にふったと言えます。繰り返し言っておきますが、普通に幸せになることは、まずありま得ません。

 ブッダは、苦行は必要ないと語ったと言われていますが、それは、普通の人には、苦行は無理だからです。ここは、普通の人には、苦行は必要ないと、正確に説明しておくべき箇所です。苦行に耐えられる人は、当然、苦行に入ります。

 もう一度、人生をやり直せるなら、高校を卒業したくらいの体力とエネルギーを使って、大峰千日回峰行にchallengeしてみたいです。これは、大峰山の山道を1000日間、歩き続ける修行です。毎日、往復48キロの山道を歩きます。午前0時に出発して、山頂に辿り着くのはAM8:30。帰って来るのはPM3:30。つまり行きは登りなので、8時間30分、帰りは下りなので、7時間。合計16時間歩きます。一日は、24時間しかありません。睡眠時間は、4時間半くらいです。これを1000日間、つまり3年近く、毎日、続けます。体調を崩したら死ぬかもしれない、そういう苦行です。が、こういう苦行をやらない限り「無」も「空」も見えて来ません。

 苦行をやらずに悟った人はいません。ブッダだって、29歳から6年間、苦行を体験しています。で、「行を終えたら行を捨てよ」なんです。修行をして、修行しぬいたら、修行をしたこと自体を忘れます。万一、悟ったとしたら、悟ったことも捨て去ります。本来、「無」であり「空」ですから、それがあるべき姿です。そこまで辿り着いた方に、現実に、会ったことはありませんが、そういう人が、日本に何人かいると云うことは理解しています。若い頃、円覚寺でお見かけしたS和尚さんは、おそらくそう云った境地に到達されています。

 石原さんは「虚無は実在する」と仰っています。「無」のひとことで充分だと思いますが、虚とか実在と云った修飾語をつけてしまうのは、やはり我々は、時代が下った、末法のまっただ中で、暮らしているからなのかもしれません。

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