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自#114|勢津子おばさんの青春物語~その7~(自由note)

 音楽は、5年間、野矢トキ先生に習います。上野の音楽学校出身。おだやかで、みんなのお母さんと云うタイプの40代の先生でした。ところで、1年生の頃の勢津子さんたちの心配は、いつ初潮があるか、分からないということ。それが、どういう風にやって来るのかも分かりません。その時は、先生に言うようにと、指示されていたそうです。

「ターキー(水の江滝子)のように、美しい畑先生に言うのはいや。あの先生に、月経があるなんて思われたくない」などと考えていて、どうせ言うなら、優しいお母さんのような野矢先生に伝えたいと、思っていた様子です(実際に野矢先生に報告したかどうかは、書いてません)。

 今でしたら、小5~中1くらいの女の子は、保健室に行って、相談するんだろうと思います。が、男女同権の時代です。保健室にいる養護教諭が、男の先生と云うケースだって、多分、あります。その場合、さすがにちょっと相談しづらいだろうなと云う気はします。

 音楽の授業は、楽典と歌の二本立てです。つまり座学か、歌うかです。授業は、唯一のグランドピアノがある講堂で実施していました。先生が、五本の白い線を引いた黒板に譜を書き、生徒はそれをノートに写して、その後、歌ったそうです。

 まず、校歌を習います。紅葉狩り、山茶花と云った唱歌を教わり、例の「精進の歌」も、音楽の授業でマスターします。昭憲皇太后(明治天皇妃)が、歌詞をお書きになった婦徳の涵養に関する歌も習います。
 金剛石も磨かずば 玉の光も添わざらん
 人も学びて後にこそ 誠の徳は現るれ
 時計の針の絶え間なく めぐるが如く時の間も
 日陰おしみて励みなば いかなる徳ぞならざらん
 水は器に従いて そのさまざまになりぬなり
 人は交わる友により いかなる業かならざらん
(この歌は、地久節と云う皇后の誕生日や卒業式などに歌ったようです)。

 グリーグの「ペールギュント」の中の「ソルヴェイグ」の歌も習います。ペールギュントは、イプセンが書いた劇詩で、グリーグが曲をつけました。この話は、ノルウェーの山村の話で、半ば精神病者のようなペールは、世界中を彷徨し、無一文のまま、最後、故国に帰り、若い頃一緒に暮らしたソルヴェイグを思い出し、山小屋を訪ねてみると、白髪の老女になったソルヴェイグが、一人でペールの帰りを待っていたそうです。ペールは、ソルヴェイグのひざを枕にして、彼女の歌うソルヴェイグの歌を聞きながら、死んで行くと云う物語です。
「冬も往に、春過ぎて、真夏も暮れ、年めぐり、年めぐる。誓いしままに、我は待ちぬ」と。つまりソルヴェイグは、ずっと待っていると云う誓いを立てて、その誓いを守り通していたわけです。

 ソルヴェイグの歌を習った頃、英語の授業で、テニソンの「イノックアーデン」を読みます。船乗りのイノックは、愛する妻子のために、より多くの収入を得たいと、遠洋航海に出ましたが、十年も消息が分からず、帰って来ません。妻のアニーは、三人の子供を抱えて、生活難になり、幼友だちであり、かつてイノックのライバルであった、フィリップと再婚します。病弱だったイノックの末の子は、死んでしまいますが、アニーとフィリップの間には、赤ちゃんも生まれ、フィリップ一家は、幸せな生活をしていました。そこに、突然、イノックが帰って来ますが、イノックはアニーの幸せのために、名乗りを上げずに寂しく一人で死んで行くと云う話です。

 勢津子さんは「夫が戦場に行って、消息不明になっても、いつまでも、いつまでも待っていてあげないと、不意に帰って来た時、気の毒なことになりますよと云う風な、ソルヴェイグは貞女の鑑、アニーはそうでなかった一つのサンプルとしての教材だったかも」とお書きになっています。私には、そこまで深読みして、当時の文部省がカリキュラムを編成していたとは、正直、ちょっと考えられません。

 私が高3の時の担任のO先生は、戦争で婚約者を亡くして、その後、ずっと独身で過ごされていました。体育の女性の先生でしたから、直接、教わってはいませんが、普通にお互いフレンドリーに、喋っていたと記憶しています。当時O先生は50歳くらい。若い頃ミス高知になったこともあって、50歳でも、充分、おきれいでした。婚約者がお亡くなりになって、その後、恋愛とか、結婚したい相手とか、いなかったのかどうか、O先生に聞いてみたかったんですが、聞けませんでした。若い頃と云うのは、好き勝手に過ごしているつもりでも、やっぱりナィーブで、神経が細かったんだろうと思います。今なら平気で、聞けます。大阪の豹柄を着たおばはんみたいに、男も年を取ると、図太く厚かましくなって行くのかもしれません。

 音楽の野矢先生は、終戦直前に、八王子の空襲で、お亡くなりになったそうです。当時、野矢先生は、ご病気で多摩総合病院に入院されていました。空襲警報が鳴り、動けない患者は、担架で地下の防空壕に避難し、どうにか歩けた野矢先生は、安全な所に向かっていたそうです。そこに昼をあざむくばかりの照明弾が落ちて、あたり一面が明るくなります。この照明弾と云うのは、空中にぶら下がる巨大なシャンデリアのようなもので、ふらーり、ふらーりと空中を漂い、下を照らし、そこに向かって、焼夷弾や爆弾が落下します。爆弾のひとつが野矢先生を直撃し、先生は、たった一片の防空頭巾の切れ端を残しただけで、亡くなられてしまいました。推定死亡時刻は、8月2日AM2:00頃。防空壕に避難されていた方々も、絶滅したそうです。

 あと二週間で終戦でした。八王子が、空襲に遭わなけば、野矢先生は、亡くなってません。が、これは運命です。いつ死ぬか判らないと云う人間の実存的状況は、いつの時代でもまったく同じです。

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