自#111|勢津子おばさんの青春物語~その4~(自由note)

 勢津子さんは、太平洋戦争が開始される1年前に、第四高女を卒業されています。英語は、最終学年までずっと習っています。英語が敵性言語としてカリキュラムから除外されたのは、おそらく、戦争開始後の昭和17年度からです 。

 勢津子さんたちは、英語を津田塾出身の塩見カツコ先生に、5年間、教わります。塩見先生は、始業のサイレンが鳴る前に教室に来ていて、終業のサイレンが鳴っても、次の授業が始まる寸前まで、授業をおやりになったそうです。勢津子さんは、ギリギリいっぱいまで教えていただいて、ありがたかったと、素直に感謝しています。英語は、今もまあそうですが、好き嫌いがはっきり分かれる教科です。国語や社会、理科と違って、単元が変われば、ゼロからスタートできると云う教科ではありません。英語は、学習した単元の上に、次の単元を積み上げて行く教科です。どこかで躓(つまず)くと、英語は解らなくなります。解らなければ、当然、嫌いになります。

 私は、基本、ずっと都立の中堅校で、教えて来ましたが、中堅校であっても、各クラスに、3、4名くらいは(つまり1割くらい)中2のどこかで(to 不定詞か完了あたり)英語が解らなくなって、解らない状態のまま、高校生になってしまっている生徒がいます。この生徒たちにとって、英語は苦痛以外の何ものでもない筈です。

 昔もそういう生徒は、確実に一定数いました。そういう生徒のためにか、どうかは判りませんが、第四高女では、3年生になると、英語と手芸のどちらかを選択できる仕組みだったようです。つまり、英語を5年間、きっちり学ぶ生徒と、2年間でsay-goodbyeしてしまう生徒に、分かれていたわけです。手芸を選ぶのは、英語嫌いで、花嫁修業に精を出したい生徒です。当時ですから、だいたいの親は、花嫁修業に直結する手芸の方を、選んで欲しいと考えていた筈です。英語をマスターして、職業婦人などを目指されたら、(親が考える)いいとこに、お嫁に行けなくなってしまいます。

 塩見先生の試験は、単語の綴りをひとつ間違えただけで、マイナス5点だったそうです。3、4個、スペルを間違えると、80点台の得点が、たちどころに60点台まで落ちてしまいます。つまり、英単語を、ざっくり何となくではなく、perfectに暗記することを、塩見先生は、生徒に求めたわけです。文法も厳しく、徹底的に叩き込みます。生徒に、正しい英語を教え込むことが、塩見先生のミッションなんです。これは、昔から今に至るまで、大量の英語の先生を育成している津田塾のミッションのひとつだと、言ってもいいのかもしれません。

 塩見先生は、音楽も大好きで、洋画家の御主人と、フィデリオ(ベートーベンの歌劇)を観て来た翌日は、教室に蓄音機を運び込み、手回しでゼンマイを巻いて、ベートーベンのフィデリオのレコードをかけて、解説した下さったこともあったそうです。多くの生徒が、クラシックを聞くのは初めてで、眠くなった人も沢山いて、勢津子さんも、正直、良く解らなかったそうです。私の恩師のS先生も、自宅に遊びに行くと、ベートーベンを聞かせてくれましたが、クラシックの素養のないJuvenileたちに、いきなりベートーベンの歌劇を聴かせるのは、まあ、やっぱり無理かなと云う気がします。素人が最初に聞く入門編のクラシックは、モーツアルトのピアノ協奏曲かシンフォニーです。

 第四高女で、もっとも重視されたと思われる科目は、裁縫です。これは、八王子が当時、絹の街だったと云うことも関係していると思いますが、裁縫は、何よりも実用的で、すぐに役に立つ技術を会得する科目だったからです。全員の生徒が、裁縫をマスターできるように、課題は外に持ち出せない仕組みになっていました。つまり、教材は風呂敷に包んで、授業が終わったら、戸棚に入れて鍵をかけてしまいます。が、手の早い人、遅い人がいます。学期末になって、提出日が迫ると、苦労してひそかに持ち帰る不心得者もいました。課題を持ち帰ることを「盗む」と言って、○○さんは盗んだらしいと、噂になったりしたそうです。盗んで、近所の洋服屋に仕上げてもらって、あまりにも手ぎわよくできているので、バレてしまい、落第点スレスレの評価だった生徒もいた様子です。

 ミシンは、当時は高価な貴重品だった筈ですが、ミシン室には、20台あったそうです。が、ひとクラスの生徒は54人いますから、半数以上の生徒は、ミシン待ちか、手縫いです。自宅にミシンのある生徒は、盗みたくなるかもです。電気アイロンは、当時は、まだ存在してないので(ミシンも、もちろん手動です。足で動かすので正確に云うと足動です)裁縫室には大きな火鉢が置いてあって、常にそこでコテを温めていました。

 裁縫のことを、お針と言いましたが、お針ができないのは、女の一生の恥だったので、大半の生徒は、一生懸命、熱心に課題に取り組みました。お茶やお花は、まあオプションだとしても、お針は、King of 花嫁修業とも云うべき、もっとも重視されている徳目です。八王子の高女卒の家庭の主婦が、着物のひとつも縫えないと云ったことは、あってはならないことで、まずめったに、そんな主婦は、いなかった筈です。

 1年生では、まず一つ身の浴衣。大人の浴衣を、男物、女物の二種類縫います。一つ身と云うのは、背縫いのない一番簡単な和服です。最初に使う布は、木綿ですが、学年が上がるとメリンス(ウール)や絹を使うようになります。次に縫うのは、四つ身。前後見頃、襟、衽(おくみ)の4パーツを、縫い合わせます。その後、羽織、半ゴートと進み、最後は、小袖を縫います。小袖は、袖口が小さいだけで、perfectな着物です。嫌と云うほど煩雑なパーツに分かれていて、それをひとつひとつ、縫い合わせて行きます。勢津子さんが、入学する前の年までは、男物のアンドン袴も縫っていたそうですが、昭和のその頃は、袴(はかま)を着用して外出する男性は、いなくなっていたので、アンドン袴は、課題からcutされた様子です。

 洋服の方は、まず体操着。上着とブルマー(当時、作業ばかまと称していたようです)。それから簡単服と言われていたワンピース。勢津子さんたちが、4年生の時、ブラウスの上に上着がつくことになって、それを紺サージで、各自、縫ったそうです。制服のブレザーを、自分で縫い上げるわけです。正直、やはり隔世の感はあります。

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