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自#124|勢津子おばさんの青春物語~その17~(自由note)

 勢津子さんは、担任の吉岡先生に、日銀に就職するように、強く勧められていましたが、結局、越中島にある陸軍の糧秣廠(りょうまつしょう)で、仕事をすることになりました。糧秣廠は、陸軍の隊員に食料を補給する組織です。通常の食料の補給だけでなく、効果的な軍事食についても、研究します。勢津子さんは、研究所の研究員として採用されます。

 勢津子さんは、糧秣廠で疲労防止食の開発に従事します。直属の上司は、土井主計少佐。土井少佐は、防府中学から三高の理科に入学。京大では法学を専攻し、陸軍経理学校に入学して、職業軍人になります。陸軍経理学校を上位の成績で卒業すると、その後、帝大で何年か勉強する機会が与えられます。土井少佐は、陸軍の委託学生として、東大の農学部農芸化学科で2年修学し、その後、各連隊や師団経理部等を経て、糧秣廠に赴任します。純粋な理系の研究者ではなく、理系・文系の素養を半々くらい持ち合わせた上司です。ドイツ語には堪能で、フランス語、ロシア語も理解できます。

 勢津子さんの同期の同僚は、錫村春海さんと云う薬専を、やはり半年、繰り上げで卒業された男性。早生まれだったので、当時、まだ19歳。土井少佐は、半分、文系の方なので、直接の指導は、東大の伊藤四十二先生から、受けます。伊藤先生は、東大教授で、日本女子大でも有機化学を教えていました。伊藤先生と、井上少佐は、三高の同窓生です。
「すぐれた女性の研究員はいないか?」と、井上少佐が、伊藤先生に打診されて、日本女子大の勢津子さんに白羽の矢が立って、糧秣廠に行くことになったわけです。

 勢津子さんと錫村青年は、伊藤先生から、文献の調べ方について、手ほどきを受けます。医学中央雑誌を、何十年も遡(さかのぼ)って調べて、疲労に関係する事項を拾い出し、それに関連する雑誌や書籍を調べて行きます。糧秣廠の図書室は、天井にまで届く書棚に、びっしりと本が詰まっていて、化学、生物学、獣医学、食品学の書籍は、ほとんど完備していたようです。図書室には、三十代の美人の司書さんがいて、本や古文書の修理をする前島さんと云うスタッフのおじいさんもいたそうです。図書室にない本は、東大に借りに行きました。

 疲労防止食に関する研究は、和光堂の研究所にも委託されていて、勢津子さんと錫村青年の二人の実際の実験は、和光堂の研究室で行っています。和光堂と云うのは、キノミールと云う調整粉乳を開発した会社です。このキノミールが、日本の国産粉乳の最初の製品です。明治時代、赤ちゃんの病気治療の時に、欠かすことができない人工栄養の添加剤が、日本にはなかったので、ドイツから「滋養糖」を輸入していたようです。この滋養糖の輸入代理店が、当時、神田にあった和光堂です(ちなみに現在、和光堂は、仙川にあります。私が以前、務めていた学校の道路を隔てたすぐ隣にありました)。第一次世界大戦が始まって、ドイツと貿易できなくなり(当時、日本は連合軍側で、ドイツと戦っていました。日本は、中国のドイツ権益や、ドイツが所有していた南洋の島を奪いました)そこで、和光堂が、自力で滋養糖を作り出すことになります。

 当時の滋養糖は、素材の牛乳を三倍くらいに薄めていました。牛乳のタンパク質は、母乳より濃いので、母乳と同じ濃度にするために三倍に薄めていたんです。が、昭和に入ってからは、研究が進み、新生児から2、3ヶ月目までは半分に薄め、その後は3分の2乳にして水を控え、半年目からは全乳を与えます。薄めた牛乳には、カロリーを補うために消化の良い糖分を加える必要があります。全乳になると、便秘を防ぐために麦芽糖を加えます。この牛乳を使う人工栄養は、牛乳の鮮度を保ったり、消毒をするのが大変で、冷蔵庫も普及してなかった時代、人工栄養の赤ちゃんの死亡率は、母乳栄養とは較べものにならないほど高かったそうです。

 和光堂研究所は、当時、淀橋十二社(よどばしじゅうにそう)にありました。室町時代、中野の長者の鈴木九郎と云う人が、故郷の紀伊熊野にある十二の権現さまを勧請し、熊野神社を建立します。ひとつの社殿に、十二の神々をいっぺんに祀った十二相殿から、じゅうにそうになったそうです。現在の新宿3丁目です(熊野神社は、新宿西口公園の一画にあります)。

 勢津子さんが卒業したのは、昭和18年9月です。糧秣廠に10月に入り、2ヶ月ほど文献調査をして、お正月頃から実験を始めます。現在でも、疲労については、科学的には良く分かっていません。10代のほとんど素人の若者たちが、こんな大変な研究に取り組むのは、竹槍で戦車に向かって行くような無謀なactivityですが、戦局はどんどん悪化していますし、あえて無謀なchallegeもせざるを得なかったわけです。

 期間限定です。錫村青年は、もともと飛行機が好きで、航空隊を志願するつもりです。つまり、特攻隊です。錫村青年は、二十歳になったら特攻隊に乗って、敵戦艦に突っ込んで、死ぬつもりなんです。錫村青年の兄弟は、みんな優秀で、自分だけができが悪いと、日頃からこぼしていたようです。お国の役に立つためには、命を捧げるしか方法はないと、simpleに考えていたんだと思います。勢津子さんに
「もう少しで死ぬ人の気持ちなんか、分からないだろうな」と、よく言ってたそうです。無論、勢津子さんには、分からないんですが、それが当たり前で、何の疑いもないことだとは、おそらく勢津子さんだって、信じていた筈です。

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