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自#110|勢津子おばさんの青春物語~その3~(自由note)

 第四高女の生徒は、入学すると修養手帳が配布されます。これは、5年間、大事に毎日鞄に入れて、学校に持参します。修養手帳は、母親に絹の布などで袋を作ってもらい、みんな大切に扱っていたそうです。

 修養手帳には、まず、教育勅語が書かれています。天皇のお言葉もあり学校の教育方針も記してあります。教育方針は、①至誠剛健、②忠孝奉仕、③質実醇厚、④恭倹節約、⑤勤勉忠実、⑥正義遵法、⑦親愛共同、⑧強健敏活の八項目です。各項目ごとに、文章がいくつか書かれています。例えば、①至誠剛健のあとには
「誠は天の道なり。これを誠にするは人の道なり(中庸)」とか
「智仁勇は天下の達徳なり。この三者を行う所以は一なり(中庸)」とか
「身をかえりみて誠なれば、楽これより大なるはなし(孟子)」等々。
 ①忠孝奉仕の後ですと
「忠臣は必ず孝子の門より出ず(千字文)」とか
「海往かばみずく屍(かばね)、山往かば苔むす屍、大君のへにこそ死なめ、のどには死なじ(続日本紀)等々と云った風な、儒教や天皇絶対主権的な内容の修養手帳です。学校長は訓話のコンテンツを、この修養手帳を元にして組み立てる場合も、無論、あります。

 第四高女には、これ以外に、サブエンジンとも云うべき、教育目標があったようです。精進会と云う一種の思想団体が提唱している「捨我精進」が、それです。精進と云うのは、輪廻から逃れ、解脱するために、ひたすら修業をすることです。解脱をすれば、我は消滅します。つまり捨我です。が、どうやらそういう仏教的な教えの言葉ではないようです。捨我精進を唱えている川村理助さんが、歌詞をお書きになり、中山晋平さんが曲をつけた「精進聖軍の歌」と云う楽曲が存在します。2コーラスくらい、引用してみます。
 日々の精進尊しや 個々の力は弱くとも
 歩々の進みは遅くとも 何時しか来ぬる聖き国
 ふと目をあげて見渡せば 妖雲頓に収まりて
 物我一如の境開け 生命の泉湧き流る

 妙応無方の智は光 円満具足の徳は布く
 一天四海浪静か 未来永劫風和ぐ
 調べも妙に末知らず 流るる凱歌朗らかに
 うたふ勇士の頼もしや 精進の人神の兵

 つまり、天皇絶対主権のもとで実施されるジハードを、儒教&仏教のフレーズを使って、コテコテにdecorateしたような楽曲だと、ざっくり言えると思います。この楽曲を、講堂訓話の後などに、頻繁に歌っていたようです。おそらく意味も分からず、勢いで歌っていたんだろうと想像できます。が、楽曲の基調は、stoicなそれです。、第四高女も、校則が厳しく、ガチガチにstoicな学校だったと想像できます。が、どんなに校則が厳しくても、ガチガチの軍国主義的な教育方針であっても、12歳~17歳のJuvenileたちは、自分達のやり方で、学校生活をenjoyします。青春とは、そういう時代です。

 勢津子さんは、第四高女を卒業した後、目白の日本女子大に進学します。個性尊重、自由で伸び伸びと云う気風の日本女子大に入学し、それまでの高女時代とはあまりにも文化が違い過ぎて「これは、まあ困った。これからどうしよう」と、当惑されたそうです。校則がガチガチの中学校から、自由放任の都立高校に進学すると、最初、生徒は戸惑いますが、まあそれと、同じようなものだと想像できます。

 勢津子さんは、授業で習ったことも書いてあります。一番、授業時数が多かったのは国語。各学年、週5時間ずつ国語を習います。作文の時間は、別に1時間ありますから、それも含めて、合計6時間、5年間、国語を習うことになります。先生の指導力が高ければ、そうとうなレベルの国語力を、身につけさせることが可能です。漢文は、選択科目ですから、週5時間の国語は、現代文3時間、古典2時間くらいの割合だったと推測できます。

 古典は、源氏物語も習ったそうです。King of 古典とも云うべき、人口に膾炙した著名な物語ですから、教えないわけにも行かないと思いますが、どう考えても、時局柄、内容が不敬です。天皇の正妻さんが不倫をして、その不倫の結果生まれた子供が、天皇になる、そういう物語が、存在すること自体が、天皇制絶対の時代には、許されないような気がします。そもそも、第四高女では、恋愛小説は禁止されています。源氏物語は、終始一貫して、第一帖の桐壺から、最後の夢浮橋まで、恋愛だけを延々と書き綴っています。源氏物語は、須磨の巻の一部を訳も分からず習ったと、勢津子さんはお書きになっています。私が高校時代、受験勉強のために使っていた、名著と言われていた小西甚一さんの「古文研究法」にも、光源氏たちが、須磨に到着した頃のsceneがテキストとして使われていました。須磨に流された光源氏のしみじみとした、もののあはれは、日本人の基礎教養として、みんなでshareしておくと云った風なことだったのかもしれません。

 国語は、関先生と云う検定試験を受けて教員になった勤勉な努力家の先生に習います。勢津子さんは、小学生の頃、作文(綴り方)は得意だったのに、関先生の評価は低かったそうです。こっそり隠れて林芙美子の「放浪記」などを読んでいる(もちろん校則違反です)同級生のりっちゃんに「なぜ作文の成績が悪いのか、関先生に聞いて来なさい」とけしかけられて、勢津子さんは、関先生のところに行きます。そうすると関先生に
「あなたの文章は単純にして技巧に乏しい。つまり芸術性に欠けている。それに最も良くないのは、なんとなくふざけている。数学にうつつを抜かすような人に、文学の楽しみなんぞ分からない」と言われたそうです。これは、明らかにパワハラ発言です。関先生は、本来、個人の個性を尊重しなければいけない国語の先生には、まったく向いてないと言えます。が、勢津子さんは、別段、怒った様子もなく「私の文章は単純にして技巧に欠けて、なんとなくふざけてる。そのとおりだ」と、納得してしまっています。三尺下がって、師の影踏まずと云う時代だったから、こういうパワハラ発言をしても、スルーされたんだろうと想像できます。

 勢津子さんが卒業された後、関先生は結核になって休職されます。勢津子さんは、クラスメートにカンパを募って、30円のお金を集め、もう一人のクラスメートと一緒に、関先生の借家にお金を届けます。勢津子さんは、こう書いています。
「関先生とはなにか歯車が違っていましたが、あの東北人特有のきまじめさと誠実さ、奮闘努力の典型的なお人柄、一生懸命教えて下さった先生のお心は身にしみて、私は、しばしば先生のお言葉を思い出しながら、人生を歩んで来た思いがします」と。

 勢津子さんは、持って生まれた、人間力が、特別、すぐれています。こういう方のためには、自ずから人生は、良い方向に開けて行くと、長い教員生活の経験から、はっきりと断言できます。

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