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自#119|勢津子おばさんの青春物語~その12~(自由note)

 昭和12年に日中戦争(当時は志那事変と言ってました)が、始まります。翌年の13年に勢津子さんたちは、夏休みに一週間ほど、軍事奉仕をしたそうです。陸軍の初年兵、つまり二等兵がつける星一つの肩章を作る仕事です。赤いフェルトの台に黄色いフェルトをのせて、星に二本ずつの糸をかけて、止めつける作業です。翌年の夏は、白衣の勇士の寝間着を縫います。素材は厚くて丈夫な綾木綿を使い、ネルの裏がついていて、堅くて縫うのが大変だったそうです。当時は、まだクーラーがない時代なので、八王子の夏は暑かった筈です。上衣は半袖の体操服だったそうですが、ウールのジャンパースカートは、かなり暑苦しいものでしたと、勢津子さんはお書きになっています。

 これ以外に、立川の陸軍病院に傷病兵の慰問に行っています。皆で大部屋の兵隊さんのところに行って、用件を聞いて洗濯をしたり、話をしたりしたそうです。先生方は、各部屋に張り付いていて、兵士と生徒との間に、とんでもない話が出ないように、気配りしていた様子です。

 慰問文を書いたり、慰問袋を作ったりもします。慰問文には、時折、返事も来たそうです。無論、学校を通してですし、内容も検閲済みです。クラスの中では、久田さんと云う方に、最も多くの返事が来たそうです。つい返事を出してしまいたくなるような、魅力的な手紙を、久田さんは、書いていたわけです。これは、ある種の才能です。

 日中戦争が始まってからは、戦死者の遺骨迎え、護国神社のあった富士森公園での合同葬にも出席しています。今は、市民球場や陸上競技場、市民体育館など、スポーツ施設のある公園ですが、元々は、護国神社の広い境内だったわけです。富士森公園まで、歩いて行くのは、大変だったし、暑い日、合同葬で立っていて、倒れた生徒も、結構、いたそうです。

 日中戦争が勃発して、軍事奉仕も始まりましたが、学業そのものに差し支えがあったわけではない様子です。勢津子さんたちは、太平洋戦争(当時は大東亜戦争と言ってました)が始まる前に、第四高女を卒業しています。

 4年と5年の夏休みには、進学する生徒のための補習授業も実施しています。午前中、英数国の3科目の補習だったようです。最も、難しくて入りにくいのは、東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大)。関西地区ですと、奈良女子高等師範学校(現在の奈良女子大)。この二つが、女性が進学する最高学府で、国語、英語、数学、家事、理科、体育などの先生になるための養成機関です。4年制で、卒業したあと、義務年限があって、2年間は、女学校の先生をしなければいけません。4年と2年で、合計6年間縛られると、明らかに婚期が遅れるので、女高師への進学を認めない親も多かったようです。勢津子さんも、女高師は、絶対にNGだと、早々と親に申し渡されていました。女高師を受験するのであれば、3年生の頃から受験勉強に精を出さなければいけません。つまり、3年、4年、5年と3年間、ひたすら受験勉強をするわけです。渋谷の松濤に昭英学園と云う女子だけの予備校があって、夏期や冬期の講習のほかに、学校を早退して駆けつけて、勉強するコースもあったそうです。昭英に通っている人は、運動会や校外授業などにも参加せず、ひたすら受験勉強をしていたようです。そんな学校をサボって、勉強ばかりしているガリ勉の方が、教師になるとかって「どうよ」とは、やっぱり思ってしまいます。

 女学校に設置されている専攻科や補修科、あるいは、今の短大に相当する東京YMCA駿河台女学院、大妻の専攻科などで、1年or 2年、裁縫、手芸、英語などを勉強し、その間にお見合いをして、ゴールインと云うのが、大半のいいとこのお嬢さまのルートだったそうです。

 修業年限3年で、教員免許証がもらえる実践高等女学校専門部とか、青山女学院の専門部、昭和女子、相模女子の専門部も、親が好む上位学校だったようです。実践の専門部は、皇室の教育に携わった下田歌子さんの創立による、格式の高い学校で、関西の同志社女専と並ぶ、名門のブランド校だったそうです。勢津子さんは、理科、数学が大好きなリケ女ですから、女子医専(5年制)、女子薬専(4年制)のどちらかに行きたかったんですが、職業教育は受けさせない、つまり職業婦人になることは認めないと云う親の方針だったので、古めかしい日本女子大か、モダンで知的な東京女子大か、まあ、当時はどちらも花嫁修業学校だったと思いますが、どちらかしか、選択肢はなかったようです。

 夏休みの補習は、松竹梅の三組合同です。30人ほどが参加したそうです。全体の5分の1です。つまり進学率は20パーセントくらいだった訳です。結局、卒業後は、女高師、女子医専、薬専、女子美、日本女子大などに、20人くらいが進学し、女子師範の二部に行って、小学校の先生になった人が、10人くらいだったようです。

 勢津子さんは、日本女子大に進学します。明らかに不本意入学です。第四高女とは、文化がまったく違うので、最初は、かなり戸惑ったようです。お堅い第四高女から、自由奔放な日本女子大に進学し、何が何やら、ふわーっとした気分に包まれ、ぽへーっとして、ものすごくもの足りなく、頼りなく、心細く、親しい友だちもなく、変なところに放り出された思いがしたそうです。勢津子さんのように、行く学校がなくて、しかたなく入学して来た人は、沢山いたそうです。女子美に行って油絵を描きたかったのに、親に反対された人、音楽学校に行きたかったのに駄目だと言われた人、女高師に落ちて、女子大に来た人、あるいは、日本女子大で構わないけど、縁談に差し支えがあるので、(本来の希望の)英文科ではなく家政科に来た人、などなどです。無論、日本女子大が第一希望の人も中にはいます。親族が全員、日本女子大出身。生まれた時から、日本女子大に進学することが決められていた人だっていたわけです。いろんな人がいて、まさにdiversity。このdiversityな教育環境の中で、勢津子さんの青春第二章は、startします。

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