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自#185|Sex and the City ②(自由note)

 テレビドラマの「Sex and the City」の元ネタは、キャンディスブシュネルが「ニューヨークオブザーバー」に連載していた同名のコラムです。そのコラムをまとめた本を、1997年に古屋美登里さんが、翻訳します。当時は、まだ文芸書のタイトルで、「セックス」と云う言葉を使うのは、抵抗があったそうです。1997年と云うと、平成も中盤にさしかかった頃です。セックスなんて単語は、そこらに溢(あふ)れていたような気がしますが、お堅い文芸書の世界ではタブーだったわけです。学校現場では、普通に使っていました。
「セックスは、まあできるだけ、しない方がいい。10代だと『えっ、こんなもの?』と、失望してしまうと思う。どうしても、しなければいけないのであれば(高校生なんだから、本当はそんな状況には陥らないとは思いますが)子供ができないように、万全の準備をしろ。子供ができたら、産むしかない。そうするとそこで、人生は激変する」と云った風な指導(講話ではありません)は、たまにしていました。セックスと云う言葉には、1ミリも抵抗はなかったと思います。むしろ、我々が若い頃に使っていた、「○○○」とか「お○○○」とかと云った隠語の方が、はるかに恥ずい感じがします。今や、セックスも、セクシャルも、セクシーも、そこら中に蔓延している時代ですが、「Sex and the City」のような自由奔放なSexが、東京のそこら中にあふれているとは、とても思えません。が、まあお堅い文芸書同様、そうは言っても、お堅い学校教育の現場で長年生きて来た私が、知らないだけのことかもしれません。

 シーズンOneのエピソード①は、ロンドンからニューヨーク(マンハッタンと云うべきかもしれません。ブルックリンとかクィーンズとかでは、しっくり来ない気がします)にやって来たジャーナリストのエリザベスの挿話から始まります。キャリア志向の方々のロマンスは、たとえばオープンしたばかりの画廊の片隅で発生したりします。銀行マンのティムは、「前にどっかで会ったかも?」と、エリザベスに声をかけます。本当は、ここで気の利いた返事をすべきなんですが、所詮はニューヨークのイギリス人(そうスティングの歌う「Englishman in New York」のあれです)ですから、ロンドンから来たばかりだと、バカ正直に応接します。このバカ正直なさえない返事を聞いて、海千山千のニューヨークの遊び人の男は、カモがネギしょってロンドンから来たと、即座に見抜いたんだろうと思います。「ロンドン? gorgeous and fantastic !!」とふわっと相手を持ち上げます。ケータイの番号を交換して、その後、デートをします。たとえば、ゴルフの打ちっぱなし。スキンシップも交えながら、優しさとスポーツマンらしい快活さとを、アッピールします。で、お洒落な高級レストランでディナー。テーブルは、長いまっ白なテーブルクロスで蔽(おお)われています。テーブルの下で、さりげなくお互いの脚を絡み合わせる、これはお洒落な高級レストランでのお約束のactivityなのかもしれません。美味な食事。芳醇なワイン。その後は、予約してあるホテルのスウィートで、wonderfulなセックス。

 つきあい始めて、どれくらいが経過しているのかは解りませんが(おそらく1ヶ月くらい)、二人で、タイムズ紙(信用度抜群の高級paperです)に掲載されていたfor saleの家を見に行きます。案内人に、「子供さんは?」と聞かれて「いずれその内に」と、ティムはさりげなく応えます。イギリス人のエリザベスにしてみると、家を一緒に見に行ったと云うことは、婚約したも同然です。親に紹介すると言われ、エリザベスは、いよいよゴールが近づいて来たと実感します。が、約束の日、ティムは「親の体調が悪くて、都合が悪くなった。延期して欲しい。また連絡する」と、どたキャン。その後、エリザベスは、ティムからの連絡を待ち続けますが、いくら待ってもティムは何も言って来ません。こちらからの電話はつながりません。つまり、ティムにとっては、恋愛ゲームは、もうとっくにThe Endを迎えてしまっているんです。本当は、お金も騙(だま)し取られているのかもしれませんが、そうするとドラマツルッギー的に、方向性が複雑になってしまうので、「Show Time is over」って感じで、しゅっとこのゲームを終わらせています。

 この話を取材しているコラムニストのキャリーは、煙草を吸いながら、ノートに話の要点を書きとめています(灰皿に5本くらい吸い殻が残っていました。煙草を5、6本吸う間に、この話を聞き終えたんです)。エリザベスにではなく、視聴者に向かって
「ニューヨークでは、恋はゲーム。終わった恋は、さっさと忘れる」と、ニューヨークでの処世術を披露します。

 エピソード①には「Pilot」と云う副題がついています。「Pilot」は水先案内人です。ニューヨークでは、恋はゲームだと、あらかじめ承知していることが、難破しないでニューヨークライフをenjoyできる極意だと、アドバイスしてくれているんです。

 何日か前の新聞に、パチスロ依存症の24歳の男が、パチスロの資金を調達するために、自分のお祖父さんを殺して、テレビを奪い、それを金に換金して、10時間くらいずっとパチスロをやっていて、逮捕されたと云う記事が、掲載されていました。パチスロ依存症の彼は、10時間のパチスロのエンタメのために、尊属殺人を犯してしまったわけです。車(たしかBMWでした)の中に、子供二人を置き去りにして、母親が飲みに行ってしまい、結局、熱中症で二人とも死んでしまったと云う事件も、ちょっと前にありました。駐車場に車を置いて、パチンコに行って、結局、車の中に放置されていた子供が熱中症で死んだと云った風な事件は、もうきっと沢山ありすぎて、報道されてないような気がします。私たちだって「えっ、またそれ?」と、もう慣れっこになって、その手の記事はスルーしてしまいそうです。

 恋愛がゲームだと割り切って行動している人は、恋愛依存症ってことに、多分、なるんだろうと思います。パチスロやアルコール依存症と較べて、リスクが低いかどうかは、正直、解りません、とにかく、恋愛がクライマックスに到達した時、つまり恋愛の限界効用が、最大値になった時、すーっと身を引いて、恋愛を終わらせるわけです。正直、解らなくもないです。恋愛は、ピークに達したら、その後は、恋愛的な熱は、冷めて行きます。いたいけないJuvenileだって、これくらいの真実は、薄々、承知している筈です。恋愛がピークに達したら、その後のお互いの感情は、友情とか(結婚すれば)夫婦愛と云ったものに変質して行きます。お母さんのような人を好きになった男の子には、恋愛の対象に、母に対するような愛情を抱き、彼女の方も、母性愛で彼を包み込むと云った風な展開もありそうです。ドアーズのジムモリソンと、恋人のパトリシアは、そういう関係だったと推測できます(ジムモリソンは27歳で逝去しましたが、その3年後にパトリシアも後を追うように死にました)。

 恋愛だけを楽しみたい人は、どうしても、恋愛を途中で、The Endにする必要があります。世界最先端の恋愛の街、ニューヨークでは、それが可能で、許されるのかと云った風なことも、このドラマの大きなテーマだと、想像できます。


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