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ピアニシッシモの日々

部活の思い出について整理しているが、もう30年以上前の記憶なので多少の行き違いは勘弁してほしい。思い出というのは、年月を経ることで自分にとって心地よいと思った瞬間を選んで何度も再生している。そのたびに補正をかけているので美化された話になりがちだ。思い出は余韻に浸るだけでなく、いまこの瞬間を生きることの支えのひとつになっている。いま、わたしが時間をかけて取り組むるべきことはビジネス、家事、自分史の整理が中心である。再びスティックを持って演奏するのはコロナ禍の状況では当面難しいと思っているが、これまで完全にスティックを手放さなかったのは、部活の思い出があるからだろう。

わたしにとって部活とはなんだったのだろうか。noteに書き残すことを通じて、当時の時代背景や空気感まで振り返る時間にしたい。冒頭に書いたとおり、多少勘違いや思い違いで美化いているところがあると思うが、自分の人生を振り返ってみることは、今後の人生を考えるよいきっかけになり、有意義な活動になるものと思っている。思い出せなくなる前に、いや、正確に言うと、思い出して、アウトプットできるうちに、少々雑にでも、アウトプットしておくことは重要だと思う。整理はまたあとにでも行えばよいことだ。


わたしが吹奏楽部に入部したのは中学1年生だ。運動ができないコンプレックスがあって運動部への入部は考えなかった。もし、ここで運動部を選択していたら、その後の人生が少し変わっていたかもしれない。部活の選択はそれほど影響があることだと今なら言える。まぁもしかしたら運動部の選択もよかったかもしれないし、運動音痴のわたしにとっては最悪な結末だったかもしれない。こればかりはわからないが、父は若い頃は腕力が自慢で、母は学生の頃はバレーにバスケで母の地元では活躍していたそうだ。運動ができそうな外観があるものの、運動の才能のかけらは、ひとつも現れたことがなかった。球技全般には嫌な思い出ばかりだ。

運動の才能もないが、音楽的な素養もない。譜面も読めない。運動することに比べればまだましだろうという思いがあった。小学生の音楽の時間でかじったくらいの知識しかなくて、人前で歌を歌うことも下手だし、そもそも人前に出ることは好きではない。それに家計も苦しいの自分の楽器は買えないと諦めていた。消極的な理由だが、スティックだけ揃えればなんとかなるパーカッションを希望した。第一希望者がいないので、すんなりとパーカッションに決まった。中学に入って、ようやくわたしの居場所ができたと感じた。

吹奏楽部への入部希望者は多かったと思われる。20人以上いたのではなかろうか。結果やめた人もいるだろう。うまく音が出せなかったとか、パートの募集人数に比して希望者が多く集まったなどの理由で、他パートへの割り振りが行われた。パーカッションの同期はわたしを含めて4、5名になったと記憶している。とても真面目で頭がよい人が多かったと記憶している。

2年生の先輩でおなじパーカッションでは3人記憶している。K山先輩、T置先輩、K村先輩だ。全員女子。3年生の先輩は2人記憶している。M口先輩、M代先輩は男の先輩。わたしはM代先輩からスティックワークを習った。スティックを持ち、右手、左手で交互に打つことは理解できた。

ロールという技術がまったくわからなかった。右手で2回打つ、左手で2回打つ、この間隔をつめていくと、粒がそろって、綺麗なロールになる。正直なところ説明はよくわからなかったが、このロールを極めることが、パーカッションのリーダーになるために必要な技術であることはよくわかった。ロールには個人の実力差がでるのだ。M代先輩は真面目で実力はあったが、たぶん人に教えることは苦手だったのだと思う。わたしもコミュニケーションが上手ではないので、頷くことしかできず、この頃はあまり上達しなかったように思う。わたしのキャッチアップの遅さは今もかわらない。他人のことは知らないが、時間をかけずに、すぐに自分のモノになるような器用な体質ではないのだ。地道な努力を忘れるべからず。あらためてそう思う。

M代先輩は毎日スティックワークをしていたと思う。昼休みもスティックワークの音が聞こえてきたこともあるし、誰よりも早く来て練習していたと思う。2Fの窓際においてある木製の棚を練習台がわりにしていた。ちょうどよい高さで、窓からの景色は絶景とまではいかないが、風も心地よく、ぼんやりと外を眺めると、遠くの風景が見えてちょうどよかった。右手に木工室が見え、正面は職員室、正門に続く道がある。人の行き来が見渡せて、グラウンドまで見える。M代先輩はずっとその場所で練習してきたのだろう。スティックの1打、1打のダメージが積み重なって、木製の棚の耐久値があまり残っていないように感じた。あと数年も続ければ棚の耐久値がゼロになり、穴があくのではないかと思った。


吹奏楽部では、夏のコンクールで金賞を取ることが、部活動の中で大きな目標のひとつだったと思う。今年はコロナ禍の影響で夏のコンクールが中止になった。正直なところ、このタイミングで夏のコンクールの話題に触れるべきか迷ったが、わたしのnoteは自分の体験を記載しているので、部活を振り返る上では、夏のコンクールに触れない訳にはいかない。もし、現役の方で不快に思われる方は、ここから先のnoteは読み飛ばしてほしい。

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音楽でいう強弱を表す記号に「ppp」ピアニッシッシモがある。「ppp」は「できるだけ弱く」という意味である。音楽の知識がなくても、譜面の記号くらいはなんとか理解できる。パーカッションの「ppp」はかなり神経を使う。もともとよく音が鳴るようにできているから、鳴ってしまうのだ。

夏のコンクールの課題曲は「交響的舞曲」という曲になった。この曲の出だしは、トライアングルの「ppp」からはじまる。わたしは1年生でありながら、トライアングルとシンバルの役割でコンクールに出場する機会をいただけた。ちょっとした役割だが大きな舞台を経験できてよかったと思っている。全体練習のときは「ppp」のトライアングルを何度も失敗した。強めに叩くか、神経を使いすぎて外すことが多かった。わたしが失敗すると、演奏を続けられなくなるから皆、苦笑いだ。先輩たちに迷惑をかけたくない思いが強くあった。だが、たった一打の「ppp」が自分でもよくわからないが、コントロールできないことが多かった。夏のコンクールの1曲目の出来栄えを左右する役割に日に日にプレッシャーを強く感じていた。

朝、歯磨きをすると吐き気を感じることが多かった。部活のプレッシャーだけだったというと、そうではない。中学校という、特殊な環境に自分がなじめず、体も心の成長も追いついていなかったように思っている。わたしは早生まれで同級生と比べて体つきも小さく、骨と皮。先輩とは大人と子供レベルの違いを感じていた。小学生からの友達が少ない中学校に進学したので孤立していた。この年頃は、運動ができなかったりすると、お調子者に執拗にからかわれて、馬鹿にされる機会が多かった。早く体が大きくなりたいといつも思っていた。2年後にようやく成長を遂げることはまだ知らない。

頭髪については、当時の風潮で全員が丸坊主だった。頭髪の違反は心の乱れ、不良の第一歩という風潮だった。なぜかとても厳しかった。今にして思うと当時の先生方は、なんであんなにも風紀の取締に情熱を注いでいたのだろうか。もっと大切なことを教える役目があったのではなかろうか。

余談だが、頭髪は自宅のバリカンで母に刈ってもらっていた。ちょっとでも伸びたままにしていると、学校で丸刈りにされてしまうからだ。なにもかも昔が悪かった、当時の学校が悪いとは言わないが、かなり窮屈な時代だったと思う。もちろん、それぞれの世代ごとに不満はあるだろう。熱心に論ずるようなことではないのかもしれないが、中学を卒業後して数年後には長髪可になった。校則、頭髪違反の取締りは、いったいなんだったのだろうか。

夏のコンクールのプレッシャーがあったものの、わたしは部活という時間に自分の居場所を感じていた。サボることさえ考えることもなく、放課後の部活に打ち込めたことは、当時の自分にとって良かったと思う。夏休みに入ると、夏のコンクールに向けて課題曲の「交響的舞曲」、「アルヴァマー序曲」の2曲だけをただ延々と練習する日々だった。脳のシワに「交響的舞曲」と「アルヴァマー序曲」が刻まれている。わたしの脳のシワを針でなぞればまるでレコードのように再生されることだろう。

部活では小さな変化が生まれていた。普段よりも時間をかけて練習できることもあって、覚醒する人が何人か現れるようになる。音を遠くに飛ばすイメージを持つために、グラウンドでロングトーンを行ったはトロンボーンだったか、ホルンだったか。金管楽器の中から覚醒者が生まれたと思っている。顧問のK林さんは成長を感じ取った人を確実に褒めていた。

パーカッションのメンバーはどちらかというとすでに実力が十分にあって、クールなメンバーが多かった。M代先輩のスネアドラム安定感があり、ロールもきれいでよい仕上がりだった。余談だが、「カシオペア」というフュージョンバンドが好きだったと思う。譜面に正確で演奏ミスがない人だった。M口先輩のティンパニも本番が近づくにつれて迫力が増していた。K山さんのバス・ドラムは顧問の指導でより覚醒したと思う。静かな情熱がこもる一打にになった。T置先輩のグロッケンはもともと軽やかだった。K村先輩はタンバリンの名手だ。アルヴァマー序曲のタンバリンはK村先輩のための曲と思えるほどにハマり役で、K村先輩のタンバリンは本当に素敵だった。アルヴァマー序曲の醍醐味のひとつは、タンバリンだといってもよいかもしれないと思わせるほどに、ガチタンバリンの人だった。親指を滑らしてロールする奏法がある。ロール技術に追いつく者は自分を含めて、ついに現れなかった。わたしも直伝してもらったが、コンクールや演奏会をノーミスで演奏できるほどの技量はないし、披露する機会もいまのところない。思い出補正が止まらないので、これくらいにする。

コンクール会場の大ホール。8月4日だったような気がする。コンクール当日のことはあまり覚えていない。大ホールの舞台袖で演奏を聴きながら待機しているとき、思わず感極まった。大ホールの響きは普段の音楽室の響きとなにもかも違うのだ。残響音というのだろうか、詳しく文章にできないが、将来、舞台の袖で働く仕事をしたいと思ったくらいに感動的な響きだった。あぁ、そういう人生の選択肢もよかったのかもしれないな、とふと思い出した。

コンクールの結果はたぶん銀賞だ。正直なところ結果を覚えてないが、夏が終わったと感じたことは覚えている。自分の役割をなんとか果たした安堵感が強くあった。本番では大きな失敗はしなかったと思う。多分。反省会では何人か涙ながらに自分の演奏に後悔の念を持っていた。こうして約3ヶ月間続いた「ppp」の日々は終了した。

夏が終わって文化祭が終わったころに3年生は引退したのだと思う。わたしはM代先輩の練習場所を引き継いだ。自分の居場所としてここが心地よかった。なるべく太いスティックを買って、この棚に穴をあけるくらい猛練習することにした。いまにして思うと手首を壊しかねない、意味のない練習だったかもしれないが、木の棚はさらに広範囲にささくれた。

ある日、練習台にしていた棚は、板で補強されてしまった。棚の補強が先だったのか、部室が手狭だったので別な音楽室に練習場所が変わったのが先だったのか、正直なところ記憶は曖昧だ。棚に穴をあけることはできなかったが、M代先輩にならって、いつも窓の外を眺めながらスティックワークをしていた。外の景色を眺めながらスティックワークをしていた日々を思い出すことがある。なんでもない思い出だが、部活に入り、充実した時間をすごしていた時間は大切な思い出だ。


数年前に中学の吹奏楽部の同級生たちに会う機会があった。集まったのは数人だ。そんなに多くはない。わたしは中学卒業以して以来、ろくに誰とも連絡をとることもなく過ごしていたのだが、この日はたまたま地元にいて、会うことができた。一瞬で時間が巻き戻り、懐かしい時間を過ごした。当時の3年生の先輩も一人いて、彼はわたしにこう言った。

「やっぱ、アルヴァマー最高だら!」

方言のニュアンスは地元を離れてながく、若干、聴き間違ってるかもしれない。「やっぱり、アルヴァマー序曲が俺達にとって最高の曲だね!」かな。

わたしも素直にそう思った。

本当に素晴らしい曲だったと思う。30年たっても色あせない思い出の曲だ。わたしにとって中学1年生の、夏の吹奏楽コンクールの思い出といえば、アルヴァマー序曲と交響的舞曲の2曲だ。何度も聴きすぎたし、思い出も強すぎるので、普段はじっくりと聴けない曲のひとつになっている。

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