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高校受験の思い出といえば

2020年3月某日

もうかれこれ20年以上も地元を離れて暮らしているわたしに、Hはわざわざ会いに来るという。そういう趣旨のLINEが来た。事情を確認すると、だいたいこうだ。Hには娘がいる。たしか高校生くらいと思うが、最後にあったのは娘さんが小学生くらいのときだ。余談だが、友人、知人の子供は知らない間に育っている。普段あまり意識していないからかもしれないが、ドラゴンボールの修業の場「精神と時の部屋」から成長した姿で出てきた感じだ。話がそれたが、多感な時期の娘さんが自宅に友達を呼んでお泊まり会をするということで、お年頃の娘さんにとって、わたしの妄想を多分に含むが、父は邪魔、友達にも会わせたくない、当日は出かけてほしい(なんならしばらく帰ってくるな、返事はハイか、YESだ!)ということなのだろう。

Hの娘よ。君の父上とわたしは、今の君くらいの年齢くらいからズッ友なのだ。昔は仲間内でよくお泊まり会もしたもんだ。Hの実家で飼ってた犬に、朝方、足を噛まれたことも覚えてる。その日、Hはお詫びの印で、コンビニでお菓子を買ってきて、わたしの家まであやまってきたのを覚えてる。まじめなやつだ。Hは合宿と称して1周間連続でうちに泊まってたこともある。まぁ、Hもさんざん遊んでたし、友達との交流が楽しい時期だよな。気持ちはよくわかるぞ。お泊まり会の当日くらい、Hはこちらで預かるから、安心して、友と楽しむのがよかろう。もう少し大人になったら、Hのことも少しいたわってほしい。

そういえば、Hから連絡があるのは久々だ。たしか最後に二人で飲んだのは1年くらい前の話で、それ以来、お互い連絡することはなかった。最後に会ったときのことを思い出すにつれ、なんとも気恥ずかしい気分になった。もう会うのはやめようかと思ったが、娘さんのために家をあける心意気のHなので、1日引き受けることにした。

わたしとHとの出会いは中学3年生だった。わたしの世代はなにかと競争が厳しい時代だ。勝手なラベルをつけられている。就職氷河期世代だの、ロスジェネだの。余談だが、いまさらながら、就職氷河期世代の支援をするというニュースが話題になった。最近はあまりみかけない。ニュースといえば、コロナ禍のニュースが多い。いずれにしても就職氷河期世代への支援規模は、コロナ対策に比して雀の涙程度の認識だ。それでも同じ世代がなんらかの形で救済が進むことはよいことだと思う。不運が重なった方にとっては、世間からも理解が得られず、心底厳しかったと思う。中抜きが発生しないような救済策も必要ではないか。

話がそれたが、とにかく同級生が多かった。わたしの地元だけかもしれないが、学年は12クラスあって、全校生徒を勘定するとだいたい1,500人は超えてたんじゃないだろうか。詳しい人数はしらんけど。

わたしは中学2年生まで、授業中に勉強した記憶がほとんどない。別に頭が良かったわけではない。勉強に興味がなかったので授業中は寝ていたか、おしゃべりをしていたから。なので授業の記憶はほとんどない。中間テストと期末テストの期間が近づくと、部活も停止になる。略して部停。部停だから、部活に行くかわりに、いやいや勉強した。

テスト直前に短期記憶で知識を詰め込んでも、調子がいいときで全体の真ん中くらいの順位に入るくらいが自分の限界だった。当時はこれが自分にとっての勉強法で習慣だった。正直なところ今も勉強が好きではないし、得意にもなっていない。

部活は吹奏楽でパーカッションを担当していた。もともと体力もなく、運動神経もないので、運動部での活躍はそうそうにあきらめていた。文化部に決めていた。家が貧しく、花形のサックスとか、トランペットなどの人気パートだと、自分の楽器を買ってもらえないくらいに家計が厳しいことは中学に入学する前から気づいていた。詳しいことは書けないので割愛する。パートはスティック1組、1,000円もあれば、はじめられるパーカッション(打楽器)がよいと考えた。

やや消極的な選択だったかもしれないが、この選択がのちに人生を好転させるきっかけになった。

Hのことは中学3年生で同じクラスになるまで知らなかった。小学校も別だし、むしろ、覚えきれないくらい同級生がいるので、知らないまま卒業を迎えた同級生のほうが多いくらいだ。そもそも、人の名前と顔を覚えるのが苦手なのだ。中学生の頃のわたしは身長も低くて、肉付きも悪く、骨と皮だった。普段から目立たない、足も遅い、運動音痴、勉強もパッとしない。量産型のイケてない部類の中学生だ。当時人気だったのは、フィジカルが強いとか、足が速いとか、喧嘩が強いのが人気者だった。

Hがのほうが先にわたしのことを認識していたことには少し驚いた。理由は文化祭でちょっとだけドラムを叩いたのを、彼なりの思いで見ていたのだからだと思っている。たぶん、そのことがきっかけになって、少し話すようになり、ブルーハーツというバンドを教えてもらった。当時はまだカセットテープが全盛で、わたしの家にはまだCDラジカセがなかったように思う。たぶん、ダビングしてくれたのではないかと思う。それか、カセットテープからカセットテープへとダビングする。そういう時代だった。

部活にはしっかり顔を出していたので、知っている曲はどちらかというと、吹奏楽で演奏した曲ばかりだったので、パンクバンドの衝撃はそこそこあった。Hから、当時流行っていた(と勝手に思っているが)ブルーハーツのイラストが描かれた缶バッチをもらったことがある。缶バッジを貰った意味は、「一緒の高校に入って一緒にバンドやらろうぜ、お前がドラムな」ということだった。勉強しながらブルーハーツは擦り切れるほどよく聞いた。

残念なことに学力、成績表も悪かったので、Hと一緒の高校を目指す学力、成績ではなかった。生活態度もテスト結果も成績表も、なんなら家計も苦しかった。どこをみても学区内で選択できる高校はなかった。それに気がついたのが中学3年の夏休み前だったと思う。ほんとにそれまで何も考えてこなかったのは、ただのバカだと思う。

Hは幸い、公立の高校を目指していた。Hとおなじ高校に行くためには何段階も基礎学力をあげるしかなかった。これまでの2年分を取り戻す勢いで、がんばるしかなかった。志望校を受けるためには、担任のお墨付きが必要だった。単願という言葉が今もあるか知らないが、ホントに合格が確実な人にしか単願は許可されなかった。私立との併願でもいい、私立は学費がはらえないと思っていたので、実質は単願と同じ意味になるのだが、併願でもよいのでとにかく受験許可のお墨付きが欲しかった。おなじ志望校の受験許可がもらえるように、まずは夏休みと、その後の土日を返上して予備校に通って基礎学力を底上げした。

内申点、成績表もすべて底上げが必要だったので、人生で一番積極的に挙手をした。なりふり構わず自己アピールには努めた。たぶん、Hがいなければ、授業を予習して挙手をするなんて、モチベーションにはならなかったと思う。

テストの実力と成績向上が認められて併願の許可がでた。正直なところ志望校には届かないと思っていたが、ほんとによかった。

<高校受験の結果発表>

もちろん合格した。公立だが奨学金も受けた。大人になって返済もおえている。そもそも、公立なのでたいした額ではなかったはずだが、当時は助かったはずだ。ちなみに、奨学金に関する集団面談ではプライバシー保護のため名前がわからない配慮があったと思う。詳しいことは忘れたけど、なんとなく配慮があったことだけはおぼえている。面接を受けた学生は結構たくさんいたと思う。全員が奨学金を得られたかはわからない。

淡々とした書きぶりだが、高校受験までにできることはすべてやったし、トコトンまでやった。だから、間違いなく試験は合格すると思っていた。

Hも合格した。Hと同じ高校に進学して、薔薇色の生活?とまではいかなかったが、部活に入り、家計は奨学金とアルバイトでなんとか過ごせた。Hとは予定通りバンドを組んだ。Hの言葉で、当時はトコトンがんばれて、家計は厳しいながらも高校生活は充実したものとなった。

高校受験の思い出といえば、Hなのである。

地元を離れてだいぶたつので、Hともなかなか顔をあわせることがなくなっていた。年に1回くらいみんなで集まれたとしても、高校受験の話をするような場面はなかった。最後にHとあったのは2019年2月だった。Hが出張で東京に出てきたときに、二人で飲むことになった。

なんとく、高校受験の頃の話をHに話しておきたい気分になった。もう40歳を超えて、いつまでも同じ日常が続くとは限らない。父も、飼っていたペットも、ある日、突然、虹の橋に旅立った。わたしの人生も折り返しを迎えている。感謝の念は、伝えることができるときに伝えておきべきだろうと思った。

乾杯のビールを飲み干して、その後も何杯か流し込み、タイミングを計った。ちょうどよい頃合いで、じつは、Hには感謝しているのだ、という、あらたまった話を振ってみた。

「・・・なんで、いままで、自分の人生の中でもわりと重要な事を話さなかったのかしらんが、じつは、一緒の高校に行けたのはH、君のおかげだ、今でも感謝している。あの頃は家計も厳しくて、公立しか選択肢がなかった、そもそも成績が全然たりなかったが、Hが誘ってくれたので、一緒の高校に行こうと予備校に通って高校受験はかなりがんばった。当時のおれは内申あげるために授業中にアピールするため手ーあげてたんだぞ?まぁ、でも、誘ってもらってホントによかったと思ってる。まぁそういうことだ」

告白した。少し期待していた人もいるかもしれないが、Hに対する愛の告白ではない。当時のことを淡々と説明した。一通り話し終えるとHは首を傾げた。残念なことに、Hは本気で覚えていないようだ。

がんばる言葉を人に与えておきながら、まるで覚えてないなんて。まぁ、よく考えてみると、Hはそもそも、そういうやつなのだ。だいたい重要なことを覚えてない。むしろHらしさがあるような気もする。

30年近く触れてこなかった告白を終えると、すっかり気が抜けてしまった。ビールの泡も消えている。少し気まずいので、ビールを流し込んで、おかわりをした。その後は妙にハイペースで飲んで、その後の記憶は曖昧だ。

<その後>

2020年3月某日

結局Hと会うことはなかった。コロナ禍の影響で不要不急の外出はNGという空気感があった。娘さんのお泊まり会もきっと中止になったのだろう。あるいは、会社からもなんらかの通達があったのかもしれない。いずれにしても当時の空気感としては賢明な判断だろう。もしかしたら、当面の間、Hとは会うことがないかもしれない。

高校受験当時のことも、大人になって感謝しているという話をしたことも、Hはきれいさっぱり忘れて、これからも縁が切れない程度に仲良くしつづけてくれるのだろう。そういうところもいいやつだ。

人生はこのまま続くけど、自分にもしものことがあったときは、Hに、このnoteにたどり着いて、高校受験当時のことを少しでも思いだしてもらえればと思う。noteのことは知らなそうだし、たぶんたどり着けないと思っているけど。

そんな、Hに乾杯

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