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『PERFECT DAYS』という怖い映画について

2024年2月6日。
渋谷宮下のBunkamuraでとある映画を観て、僕は衝撃を受けた。

淡々と流れていく静かな日常。
役所広司演じる"平山"という男は、変わり映えのしない独り暮らしを続けてゆく。
抑圧される欲求。
構築されては崩壊する他者との関係。

そういえば日本では、家族も友人もいない中年男性の孤立が社会問題になっていると聞いたことがある。

ああ、そうか。

この映画は、中年男性の孤独を描いた救いなき悲劇だ。

それが、僕が『PERFECT DAYS』を観た時点で抱いた率直な感想だった。

ところが世間の反応を知りたくてFilmarksを開いたとき、思わず声が出た。

「繰り返す日々の中に、一つ一つの美しさがある」
「ミニマムで丁寧な暮らしに憧れる」
「日常の中の小さな幸せをかみしめていたい」

そんな明るく眩しい感想ばかりだったのだ。
いや、それだけじゃない。
映画鑑賞後、初めてポスターのキャッチコピーを知った。

〈こんなふうに 生きていけたなら〉

こんなふうに生きていけたなら…?

恐ろしくなった。
僕はこの映画を観てゾッとしていたのに、周囲はまるでそんなネガティブな感想を抱いていない。それどころか平山の生活に憧れると書いている人々が大半だ。
レビューを一通り調べてみたが、自分と同じ感想は見つけられなかった。

なぜ一つの映画で、受け止め方にここまで大きな乖離が生まれたんだろう。この3か月で違和感が消えず、書き留めてみることにした。


というわけで、ここから先はあくまで個人の感想だ。「私はこの映画に元気をもらったのに」とムッとされている方は、ここらでそっと記事を閉じていただきたい。上記のような感想を否定する気は一切無い。

僕は『PERFECT DAYS』を前情報ナシで観に行った。予告を事前に見ることもしなかった。
だから「どんな映画か知らずに観た人の中には、こんなキモい感想を持つ奴もいるんだなあ」ぐらいの温度感で読んでいただければ幸いだ。



結論から言おう。

僕の目には、平山が「必死に自分を満足させようとしている哀れな男」に見えたのだ。

前半で描かれる彼の生活に会話はほとんどない。
トイレ掃除という立派な職業に従事しているにもかかわらず、周囲の目が冷たい……ということもあるが、そもそもプライベートでも人との関わりが極端に少ない。

家族も友人もいない寂しそうな生活。
後輩からはナメられて金をたかられる始末。
若い女性と接点があると嬉しそうな表情を見せるが、特定の誰かと仲が良いわけでもない。

映画を観進める中で、僕は平山の内心を想像した。

この歳になって、自分は一体何をやっているんだろう、と人生への不満を感じてしまう日々。
それでも彼は自分に言い聞かせる。

いやいや、これでいいんだ。
自分は質素な暮らしに、ささやかな幸せを見出しているじゃないか。

仕事を丁寧に、一所懸命にやりこむ自分。
ふと木々が風にそよぐ様子や、鳥の声に心地よさを感じる自分。

仕事を終えた後は銭湯でさっぱりして、一杯ひっかけて、読書して。
部屋には小さな木々を育てるお洒落空間も完備。
音楽や写真といったハイセンスな趣味も欠かさない。

みんな、こういう生活に憧れるだろ?
少なくとも俺は実現してるぜ?
都心でこんなに心のゆとりをもって生活してるの、俺ぐらいじゃないか?

……というふうに、平山は「ささやかな幸せに満ち足りる自分」をあえて演じているのだ。そんな自分に陶酔することで、日々の苦痛から逃れようとしているのだ。

そうでもしなければやっていられないほど寂しいのだ。

僕がその仮説に信憑性を感じたのは、平山がスナックへ行くシーンだ。

平山は古本屋で幸田文の『木』を購入し、その足でスナックへと向かう。彼を出迎えるのは石川さゆり演じるママだ。
ここで彼らの会話を振り返ってみよう。

ママ「平山さん、いらっしゃい。いつもの?」

 平山、頷いてカウンター席に座る。
 ママ、平山の胸ポケットに文庫本が入っているのを見かけて、

ママ「あ、今日は何の本読んでるの?」

 平山、文庫本を見せる。

ママ「幸田文、『木』……。エッセイ?」
平山「読んだことある?」
ママ「ううん。平山さんはインテリね」
平山「そんなことないよ(笑)」

映画『PERFECT DAYS』より

違和感があった。
ママの質問は「今日は何の本読んでるの?」というものだったが、平山はまだこの本を読んでいるわけではない。さっき買ったばかりの本だ。

にもかかわらず、彼はさも途中まで読んでいるかのような顔で、ただ本を見せるだけ。そしてママに「インテリね」と褒められ、「そんなことないよ」と照れたように笑ってみせる。

平山が誠実な人間ならば、「僕も今から読むところなんだけどね」の一言ぐらい言いそうなものなのに。

考えすぎと思われるかもしれない。
それでも心の汚い僕は疑ってしまったのだ。
これは、ママにモテたいがための平山のパフォーマンスなのではないかと。
ママに会うためのアクセサリーとして、知的に見えそうな古本を買って行ったのではないかと。

実際、映画の終盤では、ママと元夫の抱擁を目撃してしまった平山が、珍しく取り乱してコンビニで買った酒をヤケ飲みする様子が描かれている。平山のママへの淡い片想いを描写したものではないだろうか。

ラストシーンでは、平山は車内で涙を流してしまう。
僕には、彼が自らの孤独に耐えかねたように見えた。
寂しさを隠すための虚勢が情けなくなって。
自分は何をしてるんだろう、とみすぼらしくなって。
ダムが決壊するように、自らの悲劇を痛感したのだ。

恐ろしくなってしまった。こんなに高い解像度で“孤独”を描いた映画のタイトルが『PERFECT DAYS』だなんて、なんとも皮肉が効いている。

平山はこの先も自分を騙し続けるのだろうか。
誰とも関わりの無い自分を、思いつく限りの虚飾で埋め尽くしていく毎日。
平山のような日常を生きる人間は、今の日本に大量に存在しているのではないだろうか……?

というのが、上映中に僕が膨らませていた想像だった。

   *   *   *

ここまで読んでくださった方の多くは、「穿った見方だな」とバカらしく感じているかもしれない。

無理もない。
なにせ僕自身がそんな人間なのだから。

僕は3年前にサラリーマンを辞め、現在は脚本家として生活している。といってもまだキャリアは浅く、圧倒的に暇な期間もある(この記事もそんな閑散期に書いている)。実質はほとんど無職と変わりない。この3年間でキツいアルバイトもいくつかこなしてきた。
20代後半、パートナーはいないし結婚の予定もない。今のところは友人たちとの生活を楽しんでいるが、歳を重ねても同じように楽しい日々を送れるだろうかと、漠然とした不安の種がある。

そんな僕は無意識のうちに、平山に自分を重ねてしまったのだと思う。数十年後には自分も平山のように寂しい生活を送っているかもしれない。もし自分だったら、こんな孤独には耐えられないかもしれないと。

僕が観ていた平山は、僕自身を映す鏡だったのだ。
だから僕が想像した平山の内心とは、他でもない、僕自身に跳ね返ってくるものなのだろう。
 



映画を観た後、ヴェンダース監督のインタビューを視聴した。「平山は元々裕福な人生を送っていたが、自らその環境を捨て、新たな人生を選んだ」のだという趣旨が語られていた。

それは僕の想像とは違っていた。僕は映画を観ながら「平山は何らかの事情で実家に絶縁され、追い出されたんだろうな」と思い込んでいたし、だからこそ“孤独”について思索をめぐらせていたのだ。

つまり僕が感じた恐怖は見当違いだったのか。
と苦笑してしまった。

監督が、というより企画側が意図していた平山なる男は、孤独への耐性を持つ人物なのだろう。
そういえばインタビューで「僧侶」という言葉も使われていた。
質素に、堅実に、手の届く範囲で“生”を組み立てていく冷静な人物。

それが僕のような浅はかな人間の目を通すと、いかにも無理をして自分を誤魔化しているいやらしい男へと変貌を遂げる、そんな化学反応が起きてしまったというわけだ。
振り返ってみれば、なんとも滑稽な顛末だった。

色々書いたけれど、所詮は底辺ライターの戯言である。
絶え間なく変化する木漏れ日のように、刹那的な読み物として流し見していただければ幸いである。


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