恋ができない人間の話

私は恋ができない。コイバナも告白も私には無縁の夢物語だった。誰かの事が大好きでたまらなくて、胸が甘酸っぱくて、だけど時々キュッとして、そんな可愛らしい経験は皆目ない。恋だの憧れだのは所詮一時の逸りであり、感情の幅を広げる意味では貴重な経験かもしれないが、必要とする場面に出くわすまでは不要なもの、そう思って生きてきた。

それでも私には推しがいる。画面上の存在に胸がどきどきして、嗚呼これが憧れか、と自覚したのは小学六年生だった。それから今に至るまで、色んな人乃至キャラクターに疑似的な恋をした。現実的な恋とは違い手を繋ぐなどはできなかったし興味もなかったけれど、イベントや夢小説で推しを実感できればそれで十分だった。

恋とはなんぞや。告白された事がないわけではない。しかしその人の事を意識するようになるなどといった変化は特別感じられなかった。強いて言えば、その人の事を可哀想だなぁと思う場面はあったかもしれない。世の中には私よりもっと好きになれる人がいるのに、運が悪いがゆえに彼は選択肢を持たないのだ。なのに当の本人はそれに気が付いていない。年を取った人間なら別だが、若いうちは冒険すべきなのに。なにも蛙化現象と言いたいわけではない。これは客観的に見ても正しいのだ。なんせ世の中には自分の上位互換で溢れている。過ごした時間やら何やらで下位存在(私)にも愛着が沸くことはあるが、条件を揃えばそれも変わってくるだろう。私が遠い存在にあこがれ続けているのも、それが原因だろう。恋なんてのは所詮その程度なのだ。

しかし人は永遠を望むものだ。だから子供も作るし、あるいは作品を世に遺したりする。それはそれで恋とはまた違う欲望だから、別に考えなければならない。

例えば私が子供を望むとしよう。ならば肉体的な結びつきは必要だ(今は代理出産や体外受精があるという意見もあるだろう。しかしそれらはあくまで不妊に悩む人間がとる手段であり、今の私が取り得る選択肢には含まないとする)。とはいえ相手は選ぶ必要がある。子供も自分も後々困ったことになるだろうから。しかし恋ができない人間は、俯瞰した視野や妥協、合理性、諦めを前提に相手を探す必要がある。私がそれらを獲得するにはあと何年かかるのだろうか。

仮に私が結婚が叶わず、何かしらの作品を残す方を選ぶとしよう。私には何が残せるだろう。見ての通りだが、文才はない。画才もなければ音感も持ち合わせちゃいない。新しいことを始めるのに年は関係ないとはいうが、それがあくまで趣味に限った話か、余程の例外だろう。クリエイターとして生きるとして、今の歳で何を得られようか。

そういうわけで恋ができない人間は悩んでいる。私はあと何年生きるのだろう。


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