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ウソはいいこと?悪いこと?

娘と何気ない会話をしていた。
少し落ち込んでいたようだったので、過剰に励ます言葉をかけたところ、

「ウソはいけない」と、注意された。

興味深いものだ。
こちらの意図とは反した返しである。

相手が子供だからそれは生じたのか、はたまた。

嘘は善なのか、悪なのか。
嘘について考えてみたい。


仏教においては、嘘をつくことは十悪の一つである。

しかし、必要悪、という言葉がある。
どの要素であっても、0は望ましくない、という観念から来るものである。

この言葉からすると、嘘も時には必要だろう。

優しい嘘、という言われようもある。(本当に「優しい」のかどうかは別)

つまり、「嘘は基本悪だが、要所では必要」というのが世間一般的な見解だろう。


しかし、世間一般的な見解、というと、どうしても疑いたくなってくる。
善だの悪だの、誰目線で言っているのか。
嘘とは、騙すことか、隠すことか、誤ることか、錯覚かetc

ここで、嘘つきのパラドックスについて考えてみたい。
雑然とするので構成から考えてみるためである。

[概要]
嘘つきが「私は嘘つきである」というと、それは本当である。
正直者が「私は嘘つきである」というと、それは嘘である。
・・・嘘をつこうとすると本当のことを言うことになり、本当のことを言おうとすると、嘘を言うことになる。

簡単にいうとこういうことだが、初見の場合、これを深掘りしていくと思考迷路に陥りやすい。

例えば
嘘つきが言及、「私は嘘つきだ」
       「私は正直者だ」
       「私は天才だ」
       「私はパイナップルだ」

正直者が言及、「私は嘘つきだ」
       「私は正直者だ」
       「私は天才だ」
       「私はパイナップルだ」

この例を元に、概要について立証できるだろうか。
「本当のこと」とは言及そのものだろうか、言及者の性質だろうか。

さらに、現実ではその「嘘つき」だとか「正直者」だとか、性質は一貫していない場合がほとんどである。
そうなると、変数は無限に存在する。

無限(♾)、裏返すと、なんでも良い(0若しくは1)、に行き着く。
つまり、真だろうが偽だろうが善だろうが悪だろうが、なんだって良い。
どれかは好きに判断すればいい。


では、誰が判断するのか?
言及者?
それはただの自己満足である。

それが言及足り得るのは、相手があってからのこと。
つまり、嘘が、真か偽か善か悪かは、その言及を聞く他人が決める、ということになる。
自分自身で「私は正直者だ」「私は嘘つき」だ、と評価することは、それこそ嘘、ということだ。
嘘自体は、自分にとっては「論理」に過ぎない。

「嘘をつこうとすると本当のことを言うことになり、本当のことを言おうとすると、嘘を言うことになる。」
イソップの「オオカミ少年」を思い浮かべながら、この言葉を噛み締めてみよう。


まとめると、
自分自身にとって、嘘とは「論理」である。それ以上でも以下でもない。
嘘ついたことに対してのみ自責の念に駆られるのなら、それは思い込みだから時間の無駄である。(相手のことを考えているなら別)

言い換えると、嘘を嘘たらしめるのは、相手に嘘だといかに思わせるか。
相手が明らかに嘘だと思うように嘘をつくことが、嘘をつくコツであるとも言える。

私が娘に「ウソをつくな」と注意されたことは、
励まし方がいかにヘタクソだったかと言うことと、悪いことであった、と言うことだ。

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