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noteから生まれる理性

Note を 2 週間連続で書いてみた。

テーマは2つ

・自分の思考を整理するうえで、赤裸々な内容も交えつつ注力するアウトプット
・誰かの思考の補助線

そうして続けてみた結果、得られた最大の感覚は「脳内の整理整頓」である。
次のテーマについては成せているかの実感は掴みづらいが、クセのあると思っている私の記事にもありがたく「スキ」をしていただけていることを考えると、あながちお役には立てれているのか、ということにしている。

つまり、目的は達成してこれているというわけだ。

やっぱり、大事なことは「理性」、つまり「考えること」なのである。
そして、考えずにいると保有してしまう「自我」を克服し、その欲望をコントロールすることが万事に資するのだ。

ある方がこのように記事に記載をしていた。
「他のnote参加者の方の記事から何かを学ぼうとは思っていない。
 薄い関係で、パラパラ雑誌を見るような感覚の関係を求めている」

それは一つの答えだろう。
避難するものでも、逆に肯定するものでもない。
ただし、私はこう考える。

どうでもいい言葉こそ、重大なヒントが隠されていることが多い。
そういう言葉は、思ったより頻繁に繰り返されている。
そのため、「もういいよ」と感じることもあるだろう。
しかし、そのような話をしている人は訳もわかっていないかも知れないが、真理だから無意識に繰り返している、ということもある。
うやむやに聞くことは、もしかしたら機会損失かもしれない、のだ。

だから、noteに向かう姿勢は継続したいと思う。
ただ、毎日掲載は必要ないと感じる。
「毎日掲載」が目的化することする恐れが高いからだ。
目的はアウトプットと思考の補助線の提供であることをブらすことは望ましくない。

なお、私は文章表現が拙いため、誤解を与えてしまうこともあることは十分考えられる。
その時は、過剰にでも指摘をしてほしい。批判をしてほしい。
私のコンフォートゾーンから引きずり出してほしい。

また一層提供できることが増えるかもしれないからだ。

あらかじめ言っておくが、私は宗教には属していない。
何の信者でもない。
無宗教により陥る、会社教やネット教にも属していないと自覚している。

私は英語のリスニングをしながら知恵の輪を弄っている。
クセみたいなものだが、
日々上達を感じている。
因果関係があるかは不明である。

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