引退

野球を引退することに決めました。
小学4年から始めて、今まで13年間。
周囲と比べてそう長くはないですが、辞めた理由を語るのは、そう簡単ではないほど、濃い人生だったので、少し振り返ってみようと思います。

後記
書きたいこと?書かなければいけないこと?
とにかく感情と伝えるべきことが溢れてしまって、長文乱文ですが、興味があれば。

野球を始める

自分が野球を始めたのは、家の前にグラウンドがあって、そのチームの友達から誘われて、そこに兄もいたことがきっかけでした。
始めてすぐ、自分には才能があると思いました。
地区大会で1回戦も勝てなかったチームが、自分が入ったら準優勝、自分は特別なんだと思いました。
1年経って、家族からの勧めで硬球のリトルリーグに入りました。
そこでも、甲子園出場のコーチから
「バッターでもピッチャーでもプロになれる才能がある」
と言われ、自分には才能があって、自分は当然プロになるんだ、なりたいではなくなるんだ、と思っていました。
その当時は大谷翔平を知らなかったので、自分は今で言う大谷翔平になるのだと思っていました。
そのまま中学に上がって、そこでも、その自信は折れることはありませんでした。
でも、それが一瞬にして無くなります。

初の挫折(地獄)

中1の2月、交通事故に遭いました。
左大腿骨骨折、事故の時の記憶は、家を出たことすら覚えていないほどでした。
病院で最初に言われたことは
「よく生きてた、だけどもう今まで通りには走れないと思う」
自分の人生は終わったと思いました。
自分の野球の才能は、自分でも疑うことなく楽しくやっていました。
でも野球以外での自分は、まるで自信のない子供でした。
学校では友達はほとんどいなく、いじめのようなことも経験して、学校に行きたくない時期もありました。中学1年までそうだったように記憶しています。
それでも、野球だけは楽しくて、野球では自分の才能をみんなが認めてくれて、自分のことを見てくれる。
自分にとって野球は、生きる意味にもうなっていました。
それが一瞬にして奪われた感覚でした。
入院は3ヶ月、ベットの上から自分の力ではひとつも動けない。
数センチしか空かない窓を眺めてここからなんとかして飛び降りて死ねないかなと、ずっと考えていました。
だけど死ぬこともできず、ただただ自分のことが嫌いでした。
食事、睡眠、リハビリ、本当にそれだけの生活をして、退院して、その後もリハビリに通う生活。
でもその怪我を乗り越えてまた1年後、野球に復帰することができました。
文字通り野球ができることに、心から感謝しました。
ただひたすらに楽しかった、でもその時間もすぐに終わった。

2度目の挫折(本当の地獄の始まり)〜今に至るまで

ここからが、今までずっと話してこなかったこと。
そして自分が野球を辞めた最大の理由につながる原因です。
父親からの暴力、その結果の右鎖骨骨折。
自分にとって野球は、人生そのものと言っても過言ではないくらい、大切なものでした。
自分を認められて、自分を表現する唯一の方法だった。
それが全く自分が予想していない、関係のない、責任のないところから、一瞬で奪われた。
鎖骨を骨折したら、野球はもちろんできません。
でもそれだけではなく、鬱になりました。
自分の部屋から一歩出ると、他人の視線が恐怖に感じ、学校に行くこともできなくなりました。
友達のおかげでなんとか学校に行けるようになっても、家の中では自分の部屋から出られない。
怖くて家族と関われない。
ほぼ全ての時間を自分の部屋で過ごしました。
もちろん食事もテレビも、自分の部屋で、家族団欒の時間など1ミリもありませんでした。
高校は家から出たくて、寮に入れるという理由だけで選びました。
でも家から出ても何も変わりません。
怪我は無かったことにはならないし、心も軽くはならない。
体格で期待されても何もできない、10mキャッチボールすることもできない、周りからもバカにされている、それに何もできない自分も嫌いでした。
でも自分の好きなものを、自分の嫌いな人に奪われて終わりになんてさせない。
自分のことは死ぬほど嫌いだったけど、自分の可能性だけは信じていた、だからそのために努力しました。
勉強して試行錯誤して、その繰り返し。
やっと高校3年になる直前に、少し光が見えて、140km/hに到達することができました。
でも治ったわけじゃなかった。
どれだけいい球を投げても、1日しかできないのなら、そこにはなんの意味もない。
試合に出ても、ベンチに戻れば腕が痺れて震えて、怪我人を行ったり来たり。
結局最後までそのまま。
最後の試合は今でも忘れられない。
夏の大会前最後の練習試合。
もう限界なのはわかっていたけれど、最後くらいベンチに入りたくて、登板したものの、自分の腕が今どこにあるかもわからないくらい痺れていて、真ん中にスローボールしか投げられず、1イニングで10点取られて交代して、自分の高校野球は終わりました。
2年半で、試合も数えられるほどしか投げられず、背番号はつけたことがありませんでした。
本当はここで野球を辞めたかった。
もし続けるならアメリカに行くか、日体大に行くかの2択でした。
でもここでまた忘れられない分岐点が訪れます。
大学からスポーツ推薦の話が来ます、それが結果的に自分が行くことになる関東学院大学です。
その時の関東学院は神奈川の強豪で、自分の高校からスポーツ推薦が取れたのは初めてでした。
ただ、自分にはそのつもりは全くなく、何度も断りました。
そろそろ進路を決めないといけないとなった時、自分と母と、野球部の先生2人で面談が開かれました。
自分は変わらず「野球をするつもりはない、もし野球をするならアメリカに行くか、日体大にいく」と言いました。
先生は「アメリカに行くのはいつでもできるから今じゃなくていい、日体大は君の成績では指定校ではいけない、だからスポーツ推薦のある関東学院に行ったほうがいい」と言われました。
日体大の指定校は取れるレベルの成績でしたし、担任には余裕だと言われていました。
何度断ってもその説得の繰り返し、1〜2時間それが続き、結果的にもう嫌になって「わかりました、行きます」と言いました。
そうして、不本意ながら進路が決まりましたが、やるからには本気でやる決意をして、母に「この4年間で何にもなれなかったら、もう2度とボールは触らない」と言って大学に行かせてもらいました。
結果、大学は半年ほどで退学しました。
これは自分の信念に則った行動です。
怪我が治ってきて、ある程度投げられるようになり、全体練習に参加していましたが、球数が多く、自分の体の限界を感じていました。
そこで監督に「怪我の影響があるので、自分の調整方法で練習させてほしい」と伝えました。
答えは「全体練習を1つでもできないのは怪我人と同じ、だから4年間試合には出さない」と言われました。
その瞬間、自然と辞めることを決断しました。
そして、次の日には部を退部しました。
記憶が確かなら、そこから半年はボールを触らず、野球を続けるか悩んでいました。
ただ、やはり辞めたくないと思い、そこからチームに入らずNEOPARK(代々木にある練習施設)と河川敷でトレーニングをして、約1年間、その生活を続けてました。
そして、2022年茨城アストロプラネッツに入団しました。
そこからは、自分をご存知の方なら知っているかと思いますが、上がり下がりを繰り返しながら1年半茨城アストロプラネッツに在籍して、150km/hを投げて選抜チームにも2度選ばれドラフト候補と言われるところまでいきました。

野球を辞める理由

さあここから本題、野球を引退する理由です。
ご存知の方もいるかと思いますが、自分は肘を怪我して、茨城アストロプラネッツを退団して、移籍先を探しながらリハビリをしていました。
それを中断して、引退を決断しました。
何から話せばいいのかわからないくらい、多くの理由があるので、書いている今、思いつく限り書いていこうと思います。
自分が今までした怪我
左大腿骨骨折/右鎖骨骨折/胸郭出口症候群/右肩腱板損傷/右肩関節唇損傷
右の鎖骨を骨折してから、ずっと利き腕の怪我に苦しめられてきました。
NPBのレベルでも、このレベルの怪我をして完全復帰を果たした選手は少ないです。
自分はその怪我を、自分の責任ではないことで120km/hの時にして、150km/hまで球速を上げました。
野球がそんなに単純ではないことはわかっていますが、馬鹿な話ですが、単純計算で150km/hだった人が180km/h投げたことになります。
ここにどれだけの努力が必要だったか。
最初は何も思っていなかった、ただその時その時でやるしか無かったからやるべきことを積み重ねてきた。
でも歳を重ねて、周りの人から評価を受け始めた時に
「よく頑張ったね」「こんなに頑張ってる人見たことない」
そう言われるたびに自分は頑張っているんだと思ってしまいました。
「努力を努力と思ったら努力できない」
と言う言葉を耳にしたことがあります。
あれは、自分が努力していると思った瞬間に、人間はそれに対価として結果を求めてしまう、だから努力の難易度がグッと上がるのだと思います。
自分はそれを思ってしまった、思わずにはいられないほどの経験をしてしまった。
そして自分が努力と思っていなかった時から、自分の積み上げてきたことだけは、自分で理解していた。
それが全て自分の中に努力として認識されてしまった。
その度に自分は自分のことが嫌いになりました。
これだけ努力しても自分はまだここにいる、自分の理想にも追いつけず何者にもなれていない、そう思いました。
そして、頑張らなくては、自分はここにいることすら許されないのだと分かりました。
頑張ってる頑張ってないの基準は人それぞれですが、どこの世界にも両方の人間が存在すると思います。
もし自分が頑張っている側なのだとすれば、自分は他人が頑張るか、頑張らないかを選ぶ、スタートラインの地点に立つために、頑張らなくてはならなかった。
頑張らなくては、野球をすることも許されなかっただけです。
みんなが0から1を、1から2をやっている時に、やろうかやらないか選んでいる時に、自分はそこに立つために、マイナスをゼロにするために努力をしなければならなかった。
そして、その上で向上心を持って、自分の実力を上げるために頑張らなくてはいけなかった、それがもう辛くなりました。
うまくいかなかった時、怪我をした時、必ずその原因を考えます。
自分にとってその原因は、言い訳でもなく、紛れもない真実、父親からの暴力なのです。
自分の1番嫌いな人間から、自分の1番好きなものの足を引っ張られていることを、野球をやっている限りずっと自分は認識して、その度に心が暗くなり、でも努力しなければ何者にもなれないから、その自分を叩いて立ち上がらせて、歩かせて自分の責任だと背負い込んでやらなければならないのです。
それに疲れました。
それを続ける気力がなくなりました。
そして今の自分から、さらに上に上がらなくては、これ以上の結果は無いと分かっています。
それには、今まで以上の努力が必要だということも、わかっています。
それが自分にはもうできないと思いました。
今までの自分の努力を認識してしまった自分だからこそ、もうできないと心の底から思いました。
しかも、この地獄には終わりがない。
ドラフトにかかれば、155km/h投げれば、1軍で活躍すれば、父親からの暴力はなかったことになるでしょうか、自分の中ではなりません。
自分はどこまで行っても、「あれがなければもう1つ先があった」と思い続けなければならないのです。
他人に自分の人生を変えられたくない、自分の大切なものを奪われたくない、自分の好きなものでうまくなりたい、すごくなりたい。
そのために頑張っても、一生もう1つ先があったと思わなければならないのです。
それで誰が幸せになりますか?
さらに自分はここまでの人生で、1人で生きてはいけないことを痛いほど理解しています。
交通事故に遭った時、親が怖くて部屋から出られなかった時、鬱になった時、野球で悩んだ時、母と友達と、そういう自分の周りにいてくれる大切な人達がいなければ、自分は今生きていないと思っています。
ベランダの柵を乗り越えて下を見た時、自分の首に包丁を当てた時、自分の首を自分で締めた時、そんな時を越えて生きているのは周りの人のおかげです。
それを自分は心の底から実感して、今も生きています。
だからそれに何か、自分の人生で恩返しがしたい。
だけど野球でなんの結果も残せていない、その自分が嫌い。
自分が野球をやっていても誰も幸せにならないと思ってしまったのです。
自分も、周りの人も、誰も幸せにならないことを続けたいとは自分は思いません。
生まれてきた意味など人間にはないと思います。
でも生きていく意味がもしあるとするなら、それは自分で作るもので、自分にとってそれは
「自分の信念と自分の大切な人とものを守って、胸を張って死んでいくこと」です。
そして自分の信念のひとつ
「本気ではないのならやらない」に則って野球を辞めます。
愛していて本気だからこそ本気になれないならやらない。

最後に

今まで人生でかけられた言葉でクソ喰らえと思っていることがいくつかあって
「他にも辛い人がいる」
「野球ができない人だっている」
「人のせいにしていても何も変わらないよ」
「ポジティブにやろうよ」とか
マジで黙ってろと思っていました。
人と比較することに意味がないことなどわかっていますが、人と比較しなくては自分自身を認識できないのも人間の真実だと思います。
そうなった時自分が比較するのは、自分と同じ環境にいる人、野球をやっている人であって、野球をできない人ではないし、自分の辛さを人と比較して辛いと言っているわけではないし、人のせいにしているのではなく紛れもなくそれが真実だからそう言っている。
ポジティブになんてなれるわけない。
自分の生まれを否定して、自分の人生を否定されて、それでも自分の人生を肯定するために結果を残さなきゃいけなくて、そのために必要のない責任を背負って努力していくことがどれだけ苦しいか。
ネガティブで自分を否定して、自分を走らせなきゃここまで来ることだってできなかったと思う。

「悔しくないの?」とか「後悔しないの?」とか「もう少しじゃん」とか「まだやりたいんじゃないの?」とか、自分を思ってくれることは嬉しいけれど、自分はそんなに理由なく行動するタイプではないし、夢を見てただ進むタイプでもない。
悔しいに決まってる、後悔するに決まっている、もう少しだってわかってる、まだやりたいに決まってる。
でももうそういうのも全て嫌だから辞める。
悔しいよ、自分が父親に勝てなかったことが、自分が事実を結果で曲げられなかったことが。
後悔するよ、でも野球をやってたって俺は一生後悔しなきゃいけない。
もう少しだよ、わかってる、でもそのもう少しを生むためにどれだけ積み重ねなきゃいけないと思ってる?
まだやりたいに決まってるよ、でもやりたいより苦しいが勝つ、だから辞める。
性格が悪いと思われても、天邪鬼だと思われても、どう思われてもいい。
人からどう見られるかを気にしていたらこんな人間にはなっていない。
全部の期待も、必要のない責任も、重圧も、しなくていい努力をしなきゃいけないことも、運命も、自分の人生も、全部嫌い、だから辞める。
結果残さなきゃなんの意味もないことなんて、自分がずっと自分に唱えてきてた。
何者にもならなかったら、今までの自分の努力がなんの意味もなくなるって思ってやってきた。
だからこの野球をやってきた人生を「よく頑張った」で終わらせることなんかできない。
一生、自分は夢を叶えられなかったクズだと思って生きていく。
だけどここまできた自分に、同時にリスペクトを送る。
俺はよく頑張った、もうこれ以上頑張りたくない、だからトンズラする。
あと野球の神様とかいないよ。
いたら俺はお前が大嫌いだ、くたばれ。
多分お前も俺のこと嫌いなんだろ、俺は愛したのに。

これから

引退の話をするとセットなのが
「やりたいことあるの?」という質問。
ここに回答を残すので、もう2度と聞かないでください。
結論、ありません。
中学生の時から本気で、野球がなくなったら自分の命を自分で終わらせると思ってやってきました。
だからやりたいことがあるとすれば死ぬこと、でも大切な人達のために生きます。だからやりたいことはありません
これから何になるかも、どこにいくかも分かりませんが、とりあえず頑張りたくない。
もう何もやりたくない。
ちょっと当分は楽させてください。

感謝

最後に、自分の野球を応援してくれた全ての人へ。
こんな自分を愛してくれて、応援してくれてありがとうございました。
全ての出会いと、全ての人に感謝します。
自分の野球人生がただ辛いだけではなく、楽しい時間もあって、今もただ人生を恨むだけで終わらないのは、愛してくれた人と、素晴らしい出会いが、素晴らしい時間がそこに間違いなく存在したからです。
結果では何も返せなかったけれど、もし野球を辞めた自分でもよければ、これからも自分の幸せを応援してください。
自分はこれからも、自分の信念を曲げずに、自分勝手に生きていきます。

野球をやっている人達へ

真剣にやれ、真剣になれないなら辞めろ。
あなたが野球を続けるためにどれだけの人が支えてくれているか、見えないところでどれだけの思いがあなたを応援しているか、それをわかったほうがいい。
夢を追うことが楽しいだけのはずがない。
簡単に叶えられない夢だから夢なのだから、努力が、忍耐が、その積み重ねが必要。
朝起きてから夜寝るまで野球のことを考えて、野球のために24時間を管理して、携帯をいじる手も、運転する手も考えて、何をしている時も頭の中で野球のことを考えて、酒も飲まずタバコも吸わず、そうやってやるんだよ。
つまらない時間のほうが多いでしょう、それが嫌なら諦めてしまったほうがいい。
あなたが欲しいのは、目の前の野球を辞めていったみんなが、野球を諦めたみんなが持っている、小さな幸せ、遊ぶとか酒飲むとかそういうことなのか?
俺は違った、おれは普通にはなりたくなかった、そんな幸せじゃなくて苦しくても自分の夢を叶えたっていう幸せが欲しかった。
苦しくても必ず光はさす。
俺は夢を叶えることはできなかったけれど、それは証明した。
やるべきことをやれ、やり続けろ。
周りがなんと言おうと、君がやるべきことをやっているなら、それが近道だろうと遠回りだろうとそれが君の進むべき道だ。
辛くなったら休め、あと俺を見ろ、お前は俺よりはマシ。

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