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# 108 高校の勉強はなんのため

衆議院議員の藤巻氏が「“三角関数よりも金融経済を学ぶべきではないか”と議論した」とツイートしたことに対して様々な議論が起こっているようだ。

こういった「生徒に何をどこまで教えるべきか」という論争が定期的に話題になるように思われる。

ここでは議論の参考までに(そもそもは日記であったので)この間まで高校で授業を受けていた大学生の一意見を述べたいと思う。

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高校に入学すると、「何のために受験以外では役に立たないかも知れない勉強をするのか」という課題が出た。
あの時の僕は「出来るだけ身体的差別を抑えて同年齢の若者を差別化するための、教養もつくシステムとして納得している」と嘘を吐いた。
二年生になって、「知の参加可能人数を増やし革命的な進歩をもたらす人間の発生確率を増やすという宝くじ理論は、正しくとも支持されない。なぜなら殆どの人間がハズレくじであり、彼らはハズレくじであるが故に自らがハズレである事を肯定する理性も霊性をもたないからだ。ゆえに、文化から文明への進歩共同体の共有知として必要だから」と大人を気取った。でも、それは社会を知らない社会で生きていくには息苦しくて、それで、三年生ではこう答えた。

高校時代までの座学は歴史という科目以外も全て歴史であるのは明らかで、人類の叡智が歩んだ道を見せてくれているはずだ。
ヴァレリーやコヘレトに言われなくても、人は過去に目を向けて未来に背中から進むしかないことくらい中学生でも知っている。
ならば、歴史を学ぶことは、幸福のための未来への視座として、死への救済として、絶対的に必要と言える数少ないものの一つではないだろうか。
存在することにおいて残酷に平等な我々が、悪き全体主義に呑まれずに死と向き合うには人類全体の霊性の進歩への道程に永遠を見るしか無いと、僕は思う。
ただの“主義”なら黙れと言わないで欲しい。
知という歴史を学び、こんな事を考えて議論して、思考の刀を鍛えることが高校で学ぶべき勉強だという、答えなのだから。

出題者として僕は夢想家の彼に会ったらなんと答えるだろう。
きっと、「恥ずかしいこと言ってないで三角関数の積分を練習しろ」と言わなくちゃならないのだろう。
でも、「もっと考えて、また提出しなさい」と言ってあげたいと思う。その間はまだ青春だから。

そろそろ青春も終わる僕の提出期限が迫ってきた。今度は一人で出した答えじゃ無いぞ。
5年後の僕の採点を楽しみにしようと思う。

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