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救世主を待ち望む私たち

コロナ騒動の裏で、壮大な計画が遂行中であり、今までありとあらゆる悪事をはたらいてきた悪者達が一斉に大量逮捕されるのでは?という話がある。

Qという謎めいた存在や、Qアノンというムーブメントを追っている人などにとってはよく知られている話だと思う。

その壮大な計画は、長いこと人類を操ってきた「闇の組織」を打倒すべくして組まれた「とある同盟」が、もう何十年もかかって慎重に進められており、一説によれば、近いうちに3日間や10日間といった電話とインターネットが遮断される期間が訪れ、その期間中に、闇の組織のコアメンバーや、そこに関わる悪人達が一斉に大量逮捕される、といったこの計画のクライマックスともいえる事件が起きるという。

「あぁ、この裏で起きている計画さえうまくいけば世界は救われる!
私たちは救われるのだ!」

。。。。。

実は何週間か前までは、このクライマックスが、春分の日、聖金曜日(イースターの前の金曜日/キリストの受難記念日であった4月10日。これはトランプ大統領のイニシャル、DJTを数字化すると4/10/20でもある事からかなり話題になっていた)、イースターの日曜日などのタイミングで起きるのでは?と一部の人々の間でかなり期待されていた。

もちろん、それは今のところの知るかぎりでは起きていないのだが、それによってかなりがっかりした人も多いのをインターネット上で見かける。
それもそのはず、この大量逮捕イベント、去年は2019年中に起こるという話もあったし、もっといえば、私の知る限りではここ10年くらいずっと、この未だ訪れない世界が救われる瞬間を期待させられる話が沸いては消えていく、という事を繰り返しているのだ。

この件について、本当にそんな事があるのならばこんな素晴らしいことはないと思う。そして、まさかそんな一大イベントに今生にて立ち会えるなんて!!!

でも、、、

このまことしやかな情報にて一喜一憂するこの一部の人達をみていて、どうしても払拭できない違和感がある事も否めない。

救世主がいるシナリオといないシナリオ

先に述べたように、実際にこの計画が存在して成功するならば、こんなに素晴らしいことはない。
だが、このとある同盟や、特定の人物が救世主として現れて、一夜にして魔法のように、人々は争い合うことなく愛し合い、すべての人が何の過不足もなく暮らすことができ、平和な世界がおとずれて、めでたしめでたし。。。とは、ならなかったのなら。

こんなにも待ち望んだ救世主が、実際にはあらわれないとしたら。
私たちは一体どんな思いをするのだろう?

放置されたり、十分に相手にしてもらえなかったことが原因で傷ついている、私たちの集合無意識内のインナーチャイルドが暴れだし、その過去の記憶からの痛みや失望をこれでもかと、またリピートを繰り返す経験することになるのだろうか?

そしてその経験から、前進していくのためのどんな指針が生まれるというのだろう?
私たちはいじけていく一方で、きその闇の存在達の私たちに及ぼす力は、きっと一層増すこととなり、希望の無い、痛みに満ちた世界はますますひどくなってゆくのだろう。

もしくは、皆が望んだように、めでたくその救世主は現れ、見事にこの世を救ってくれたとしよう。

世界が救われたその時、人類は皆で歓喜に酔いしれ、私たちはその救世主達を大いに祝福するのだろう。
だが、時が立ち、もしその救世主や、その救世主の後を継いだ存在が、善良な上っ面を保ちながらも、利己的であったり悪意にみちた存在に表面化で変化していったとしたらどうだろう?

その時に、私たちはその変化に気づいてそれを指摘し、行動を改める様に追及できるのだろうか?

ここにあるのは、そこに気づくことが出来る洞察力が私たちに養われているか、といった問題だけではない。

もし、この「救世主」を私たちが絶対的な存在のように祭り上げてしまい、ありとあらゆる権限を明け渡してしまっていたとしたら、どんなに鋭い洞察力を持っていたとしても、法的にその存在を追放したり、責任を追及をしたりすることはできないのだから。

どちらのシナリオにおいても結局、腑に落ちない浅はかさを感じてしまう。
それが私が払拭できない違和感の正体なのだ。

自分に責任を持つということ

そもそもの問題は、自分たちは無力な存在で、誰か自分以外の存在に救ってもらわなければ、といったメンタリティーなのだ。

このメンタリィーを持っている限り、どんなに民主的なシステムを構築しても、他人任せの群衆をまやかしで操ることは可能なことである。

たとえば、群集を利己的で悪意にみちた考えで使おうとする存在がいるとして、その存在達の立場から彼らがどう考えるか想像してみよう。

絶対君主的なシステムであれば、群集をコントロールするのには一番簡単だが、もし民主的なシステムになったとしても、
メディアを操作できれば、群集が何をどんな風に考えるべきか、ある程度都合の良いようにプログラムできるし、選挙などによって選ばれる政治家さえも、金やブラックメールなどを使って自分たちの都合の良い候補で揃えておけば、誰が当選しても問題ない。

多くの人を、死なない程度の病気や貧困状態にとどめさせることが出来れば、それがいくら重要なことであっても、日々の生活に精一杯で目の前にある問題以上の事に頭は回らないだろう。

なんなら、質の低い有害な食糧、ケムトレイルや水道水に混ぜ込んだフッ素などで、松果体などを含めた大切な脳や体の機能を停止させておけば完璧かもしれない。。。

もちろん、こんな仮定は、ただの仮定でしかない。(よね?)
だがもし、本当に悪意に満ちた考えで群集を利己的に使おうとする存在が出てきたとしたら、その可能性はないと言い切れるだろうか?

この世界では、誰にも自由意志が許されていてる。
もし、そんな悪の道に進もうと決める者がいれば、そうする事さえも許されるのだ。

そして、この過剰に簡単化された例え話は、本当にただの被害妄想に任せた例え話だろうか?

この例え話に真実性があろうとなかろうと、悪意に満ちた存在達がいるという想定の中で、その存在達のせいでこの世の中が良くならないのだと、自分以外に責任があるという態度が私たちにあるのなら、それは、自分以外の存在に力を明け渡してしまっている態度なのだ。

環境による条件づけを超えて

私たちは、宗教、テレビや映画といったエンターテイメントなどを通して、執拗なまでに救世主が世界を救うというシナリオを刷り込まれてきた。

ユダヤ、キリスト、イスラム教におけるメシヤの存在や、仏教における弥勒菩薩(マイトレーヤ)、ウルトラマンやスーパーマンといったヒーローものから水戸黄門などまでに見つける事ができる、「善と悪」の短略的に二元的な世界における救世主のアーキタイプに事欠くことはない。

(それに比べて、宮崎駿先生による「もののけ姫」がすごいところは、ストーリーラインを、そんな短略的な二元的世界から完全に超えたところで展開しているところだ。)

今、長い事待ち望んだ大量逮捕などが起きるとしても、起きないとしても、その後の世界、もしくは、コロナ後の社会をどう構築していくかは、私たち一人一人にかかっている。
前回の投稿にも書いたように、自分に出来ることとは、まずは自分の事なのだ。

まず、自分にしっかりと向き合い、自分の中の二元性を超えた視点を養い、そんな視点をそれぞれにもった集団として、自分たちの本当に望む世界をつくり、維持していくという事に責任を持てる存在になることが大事なように感じている。

それは、自分のインナーチャイルドが抱える痛みを癒していくといったことかもしれないし、または本来の自分という存在や、本来の自分の力を思い出していくために、自分の中の制限を外してゆくワークといったことかもしれない。

とあるファンの作ったドラえもんの最終回

「ドラえもん」の結末を誰かが想像で作った作品をどこかで見かけた事がある。その作者が描いた物語は、記憶が正しければこんな内容であった。

ある時、とある理由で、ロボットであるドラえもんが機能停止になってしまう。いつだって困った事があれば、四次元ポケットから不思議な道具をひっぱりだして手取り足取り助けてくれたドラえもん。。。親友をなくしたのび太は失望のどん底に落ちる。

時は経ち、大人になったのび太は、まったくのダメ男だった子供時代からはまったく想像もつかない、世の中にとても大きな貢献をする偉大な科学者となっていた。もちろん結婚相手はしずかちゃん。

一体、あののび太に何があったのか?

そう、のび太は失望の底に落ちたのち、失った親友をどうにか修理することによって蘇らせたい一心で、生まれ変わったように勉学や研究に励み、見違えるような大人へと成長していたのだった。

のび太は今でも仕事から帰ってくると、自宅のラボにてドラえもんの修復にとりくんでいる。きっとまたあの親友の笑顔と再会できる事を信じて。。。

私たちも、自分や自分の置かれた状況を誰かのせいにするのでもなく、誰かに頼るのでもなく、自分自身の手で乗り越えてゆく覚悟を決める時なのかもしれない。

未来からやってきたドラえもんを、自分が修復するんだ、と決意した、この物語ののび太のように。

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