豊かさの定義と3.6%という数字
いきなりですが3.6%という数字、これは世界における日本人のアートにかけるお金の割合です。
GDPの規模、富裕層の割合から、先進国といわれる国の中でダントツに低い数字とのこと。
米国 42%
中国 21%
英国 20%
日本 3.6%
※出展 文化庁 2017年
(意外だったのが、ドイツやイタリアも同水準か、それ以下だった。)
金銭的には裕福な国だけれど、
心は裕福ではないっていうことを表しているのではないかと思う。
そして、資本主義の逆効果が顕在化してきた日本では、豊かさの指標が少しずつ変わりつつある。
正しくは多様化しつつある。
誤解を恐れずにいうと、
これまではお金を稼ぐことができる!ということが豊かさの指標においてマジョリティであったように思うけれど、
(この指標自体がなくなるとは思っていない。)
これからは、自らの意志をもって「自分」を生きていること、そして社会に貢献できているという「実感」を持てているということ。
これが豊かさの指標において重要な指標になっていくはずだ。
素敵な人と繋がりたい、いろんな考え方や文化に触れたい、自分の可能性を知りたい、自由でいたい、社会の役に立ちたい。
こういう人が回りに増えてきたと感じるし、
少なくとも僕はそう思っている。
なんの脈絡もないけれど、今僕は、
日本の文化を再編集をしたいと思っている。
僕自身、生まれ育った国の文化に興味があるし、ある種の危機感を覚えているからだ。
「日本の文化って?」
いわゆる日本の文化ってどういうイメージをも持っているだろうか?
高尚で近づきがたい、堅そう、日常ではない。こんなイメージを持っていないか?
日常ではないってことは、違和感があるということだ。
会社に行って、着物来てる人いますか?
→着物問屋さんを除いて、答えは99%Noだと思うし、会社に着物を着ている人がいたら違和感しかないと思う。
毎日お茶を飲みますか?
→答えは「お茶しよう!」とは言うもののカフェでCoffeeを飲んでいるのが通常運転。
あえて緑茶を飲む方が非日常なんではないか?
いわゆるぼくたちが想像する日本の文化は
日本人の中で日常じゃなくなってしまったってことだ。
そうなってしまった理由はいろいろな要因があると思うけれど、
結論もっと日本の文化は自由でもいいのではないか?と思っている。
決して〇〇流の家元や宗家を名乗る方たちへのアンチテーゼではないし、〇〇道という型にはとても存在意義があると思っている。
ただ、もう少し裾野は広げたほうがいいのではないかと思うし、もっと自由でいいのにと思うシーンは多々ある。
昔の人が決めたことを続ける。
これも素晴らしい。
新しい解釈をして、新しい表現をする。
これもまた素晴らしいことなんではないか?
サッカーというスポーツの市場
いつも裾野を広げる話をする際に、
サッカー市場の話をしている。
日本のJリーグがビジネスとして成り立っているのはなぜですか?
という問いがあったときに皆さんはどう考えるだろうか?
そりゃあファンがいるからだろう。と言われてしまいそうだけど、
では、なぜファンがいるのだろうか?
無論、答えはひとつではないけれど、
僕は全国に「サッカー少年団」があるからだと思っている。
少年サッカーでは、
結果が全てでもなければ、(教育の一環という考え方が強い)
細かい戦略の話もしないし、(全国大会にでるようなチームは別)
契約更改なんかも勿論ない。(生活に支障がでるわけではない。)
友達が習っているからという理由で、参画もしやすい。
なによりボールをさえあればどこでもできるし、高い壁なはずの「体験」への障壁が異常に低い。
そしてサッカー少年は自分が頑張ってもできなかったプレーをテレビの奥でいとも簡単にやってのけるプロサッカー選手を見て憧れを持つ。
JFAの調査によると1981年の少年サッカー人口は1200万人を超えていたそう。
人口の10分の1はサッカーをしていたと言っても過言ではない。
このようにサッカーをしていた多くの人が世の中にいて、大人になって、憧れだった選手やチームのファンになる可能性がとても高い。
地元にプロサッカーチームがあったら尚更ファンになりやすいのが人情ってものだと思う。
エンターテインメント性のあるプロスポーツを論理的にみると少々ドライな印象をもってしまうが、大枠はあっていると思う。
「鶏・卵」の理論になってしまいそうだけど、
こういう見方をするとビジネスの土台となる見込み顧客の啓蒙と育成がしっかりできていていると感じる。
一握りの選手たちはプロになり、なんらかの形でサッカーに関わってきた方たちはプロチームや選手のファンになりやすい。そしてプロはプレーでファンを魅了し気持ちを離さない。
プロは非日常(ハレ)
アマチュア(少年サッカー)は日常(ケ)
この2つがお互いを補完し合い、サッカーをエンターテイメント産業として成り立たせているのだ。
話を戻すと、
日本の文化産業の市場はサッカー市場のようにはなれてはいない。
ファン(見込み顧客)の啓蒙と育成が行われていないまま、プロの凄さだけが語られているのだ。
重ねますが日本の文化は、現代の日常には無いということです。
むしろ非日常であってもそのシーンは減ってきていると感じます。
非日常は日常があるからこそコントラストがでる、だからこそ日本の文化を日常にしていくことが必要なんじゃないかと思っています。
良い悪いではなく、現代のライフスタイルは、西洋のモノで溢れている。
これは僕の実体験ですが、銀座の割烹料理店で働いていた際、一度たりとも友達がディナーに来てくれたことはありませんでした。そりゃ高いし。
でも奮発して、同じくらいの客単価のフレンチのクリスマスディナーには行くのは知っていた。
これに当時の僕はなぜなんだろうと思った。
単純に友達が少なかったからかもしれないけど(笑
話は長くなってしまったけど、
日常と非日常は相関関係にあって、
極端に言うと日常に存在しないカテゴリーは、非日常にも存在しなくなる。
逆も然りで、非日常で存在していたカテゴリーの力が弱くなると、日常で存在していた力も弱くなる。
何らかの原因で、日本からJリーグがなくなれば、アマチュアサッカー人口も一気に減っていくのだと思う。
日本の文化産業では、非日常(ハレ)領域で熱心に日本の文化を知ってもらおうと国内外で活躍されている方々が数多くいらっしゃいます。
しかしながら、相対的に日本の文化を日本の日常に広げようとされている方々は少ないように感じています。
だからこそ僕は「和をもっと日常に」したいと思うし、裾野を広げるべく「和をもっと自由に」したいと思っている。
そのためには今のライフスタイルでも違和感なく、日常に取り入れてもらえる文化を伝えていく必要がある。
好きなものを好きといえる世の中にしたいし、
ひとりひとりが豊かさとは何かを考えるようになって欲しい。
たまたま僕は日本の文化に縁があるだけで、決して日本の文化が全てという訳ではない。
けれども自分のことを日本人と強く認識していたら、そしてグローバルで活躍したいと思っているのであれば、生まれ育った国の文化は知っていて欲しいと心から思っている。
そして自国の文化を知っていることで、
他国の文化も理解しようと思えるし、異文化交流もできる。
それは世界平和につながることだと確信している。
文化は決して高尚なものだけではなく、
生活の身近にもあるものです。
食、工芸、民芸、美術(アート)、風習、概念、思想、哲学。あらゆるところに文化はある。
文化はあなたの人生を豊かにしてくれるモノだし、これからのぼくたちの生き方そのものが文化になっていくのだと思っています。
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