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ちょこちょこちょびっとお手伝い

最近、風呂のスイッチを押してもらったり、やかんのお湯を沸かしてもらったりと、ちょこちょこお手伝いをお願いしています。小さかった頃は色々頼んでやってもらっていました。小学校から中学校にかけてぐらいだと包丁を使ってもらったりも。家事に限らず大抵のことが出来ないと言えばできないのですが、出来が悪くてもいいのであればできるとも言えます。学校では文化祭の準備などは「手伝わなくてもいいから帰れ」と言われるぐらい何もできなかったようです。出来る出来ない以前に何をやっているのかがわからないから何をしたらいいのかもわからないわけで、まあ学友の皆さんの「帰れ」という判断はあながち間違ってるとも言えません。また娘がそういうの全然平気で帰っちゃうんだよな。なんというか、社会性というのはちょっとどうしようもないなあと。

社会性はともかく、家の中でちょっとした家事など出来ないとやっぱり不便だあと思うのです。出来ると言っても本当に簡単なことで、先に挙げた「お湯を沸かす」とか「風呂のスイッチを押す」とか、その程度のことです。家の中にずっといるようになってからは米を研いでもらったり簡単な調理を手伝ってもらったりしたこともあります。驚いたのは、炊飯器の内釜で水を測るというのが出来なかったことです。それ以前に、中学校の時だったかなあ、メスシリンダーの目盛りを読むというのがどういしてもできないようで、家にある目盛り付きのカップなどで練習してもらったことがあります。娘は水平にして真横から確認するというのがどうしてもできませんでした。そんなの当たり前だろと思うようなことが「できない」と言われるとこちらが対応に困ります。器を斜めにしたら測れないじゃん。まあでもこういうのはちょっともうどうしようもない感じです。思考の過程が違うというかそもそも思考が抜け落ちているというか。かなり深いギャップを感じます。

結果的に出来ることをちょびっとやってもらうということになります。まあそれでも何もしないよりはマシでしょう。

ここ最近はお願いすることを少しずつ増やしています。あくまで無理のない範囲で。状態が悪いと「やだ」「やらない」みたいな感じになります。

いわゆる「拒絶」というやつは、極端なものから曖昧なものまでかなり幅広く現れてきます。お手伝いを頼んで断らないということは「拒絶」という状態ではないということです。「拒絶」があまりないということは状態としてはかなりいい状態です。ここ最近の状態はいまだかつてないほど良い状態だと私は思っているのですが、医師も娘も「へぇ」ぐらいの暖簾に腕押し状態です。なんだろうなあ、私だけが「いい状態ですよ」と思っているわけです。独り相撲というかなんというか。

でもなあ、「やだ」ってセリフをしばらく聞いてないんだよな。これって本当にかなりいい状態なんだよ。そしてその理由はビタミンDだと思うんだよなあ。医師に話しても「あぁ」ぐらいの反応だし内心であんまり変なところに深入りしないほうがいいですよと思ってるだろうことは伝わってきてはいるんだけどさあ。あやしい健康食品とか民間療法にハマってるわけじゃないから生温かい目で見守られてるんだろうなってのもわかってはいるんだけどさあ。色々クスリ変えてもどこかの段階で暴れ出すのが続いてもう15年近くじゃないですか。そうなると客観的にはわずかの変化でもこちらとしては大きな変化に思えたりもするわけなんですよ。

今朝もお湯沸かしてもらったりしています。食器はテーブルからキッチンまでは運んでもらっています。そろそろ食洗機にセットするのもやってもらおうかなあ。またご飯を研いでもらおうかなあ。娘が研ぐと水を捨てる時に米も流しちゃうんだけど、そこはまあ、あまり気にしないということで。

なにも頼まないととことんなにもしないのでなにか頼んだほうがいいんだろうなと。頼み過ぎると断られそうですが、面倒くさいからやらないというのは妄想的で力強い「拒絶」とは違うはずなので。

とか、そんなことを最近は考えています。トイレ掃除とかどうだろう。汚したら自分できれいにしろ。言ってみてえ。なんか余計に汚しそう。無理か。

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