『フィッシャーマン 漁り人の伝説』 ジョン・ランガン

『フィッシャーマン 漁り人の伝説』
ジョン・ランガン
植草昌実訳 新紀元社『幻想と怪奇』叢書

変えられぬ運命や不可能ごとに立ち向かう人々の物語は文学にとって主たるテーマの一つと言っていいのではないかと思う。オイディプスやカリギュラ、そして今作のエピグラフに挙げられている『白鯨』のエイハブ然り彼らは不条理に直面しながらも己の感情を純化させ彼等を損なわせた運命に対して壮絶な闘いを挑んでいく。個人の視点に立てばヒロイックな物語になる一方、客観的に見た時その闘いは一つの想いに固執し視野狭窄に陥った人物の狂気の物語になる。それらの物語はとても微妙なバランス感で成立している。前者を大事にしすぎると共感し辛い物語に後者の視点に立ちすぎると個人の感情が蔑ろになり心の無い「正しい」物語になってしまう。しかしこれらはあくまでカリギュラやエイハブといった強烈な個の物語であり、かつ神や運命に対する形而上的な物語であり、日常の中にいる私達には少々縁遠い物語に感じてしまう。今作はパートナーや子供の死という日常にありながらも決定的な喪失を経験をした男達の物語にすることで個の感情に向き合いながらその感情から導き出された行為の本質的なわからなさが恐怖として語られるため形而上的な神話ではなく血肉の備わった小説になっています。

物語は癌で妻を失ったエイブと交通事故で妻と子供達を失ったダンが釣りをする事でお互いの悲しみに寄り添い親交を深めていく中で、ダンの誘いで二人はダッチマンズクリークという川に釣りに向かいます。その途中のダイナーの料理人ハワードからダッチマンズクリークに関する物語を聞かされます。

ハワードの語る物語はロッティという老婆の話を聞いた牧師の話をもとにしていてロッティの父ライナーを中心にダッチマンズクリークのできるきっかけとなった貯水池の工事の際に起きた漁り人という謎の存在に関わる奇怪なものでした。今作は三部構成になっておりエイブとダンの物語に挟まれる形で過去に起きたライナーの物語が語られます。

主たる登場人物たちは皆男で何かしらの喪失感を抱いています。現代パートのエイブとダンは勿論の事、過去パートの地主のトードや漁り人も妻と子供を失くしたことが彼等の行動原理になっていますし、ドイツから移民としてやってきたライナーは祖国と自らのキャリアと学友を失っています。ライナーの仕事仲間たちもみな移民であり自らの国を後にしてきたという点では皆が何かを喪失しており新しい何かを掴み取ろうとしているところはアメリカのアメリカ性がよく出た人物設定になっていると思います。
今作では日常の世界と向こう側の世界の二つにパックリと分かれており二つの世界の繋ぎ目としてダッチマンズクリークがあるのですが、登場人物達はみな日常の世界に絶望しておりその度合いによって選ぶ行動が変わってきます。絶望の淵にいる人物は何とかして自らの喪失を埋めようともがき続けます。運命に逆らうという意味ではヒロイックな物語にもなりそうですが、喪失を受け入れることに重きがおかれておりそれが受け入れられない人物たちは喪失に足を絡め取られて動けなくなりその行動が自分自身をも傷つけてしまいます。運命に逆らうということは流れとは逆に歩みを進めるようなものでずっと歩き続けられるようなものではありません。そして自分が折れてしまった瞬間に今作では恐怖が立ち現れます。喪失感を大事にしすぎた結果自傷行為になってしまうのです。向こう側の世界は本質的に生きる人の世界ではないため深く立ち入ると自らも変容してしまいます。向こう側の世界の漁り人の描写にはそれが端的に現れています。

自らをケアすることそれが釣りを通して表現されてもいます。主人公のエイブも漁り人も釣りをしているという点では同じです。しかしエイブは釣果が重要なのではなく釣りという行為自体が自らをケアし過酷な現実に対してなんとか留まる事ができるのですが対して漁り人は釣果こそが重要であり釣り上げる為には犠牲も厭わないことで向こう側の世界に行ったきりになってしまいます。そのうちに自分自身が変容して当初の喪失感が蔑ろになってしまうところはとても哀しみに溢れています。

悲しみに固執することがホラーとしてあらわれる今作ですが基本的にはその悲しみを大切にするというところを忘れていないのがとても大人のバランスになっていると思います。
ただ個人的には小説の中では漁り人の様に運命に抗い続けるヒーローの物語をこそ読みたいと思っている自分もいるのが本当のところです。


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