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留学日記#06:ドイツ旅行とウクライナ

みなさんこんにちは。先日まで、ドイツ旅行に行ってきました。結局ウクライナのこともあってポーランドへ行くのは諦めて、ドイツの中の街をいくつか回ってきました。初めにベルリンに2日、そして次に電車でハンブルクへ2日、そして最後に車(Bla-Bla  Carという、乗合の車)でハノーファーへ行きました。

その旅行の話をしようと思ったのですが、アムステルダムへの帰りに、かなり衝撃的な出来事があったので、その話をしたいと思います。タイトルからお察しの通り、ウクライナに関わるお話です。

ウクライナからの避難民

行きはアムステルダムからベルリンまで飛行機で行きましたが、帰りはハノーファーからアムステルダムまでの飛行機がなかったため、直行便の列車で帰ってきました。まさかの普通列車で4時間半行くのかと思ったら、ちゃんとした特急列車で安心しました。

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ベルリン始発、アムステルダム行き直行特急

定刻通り、ハノーファーを16時30分に出発し、23時00分にアムステルダムに到着しました。僕は荷物の整理に時間がかかったので、一番最後に降りました。そうしたら、目の前のホームに、ウクライナからの避難民と思しき家族が立っていたのです。

なぜそれがわかったのか。降りてすぐに、ウクライナの国旗を掲げたボランティアの人がやってきたからです。その家族は、お母さんと小学生くらいの少年、そしておばあちゃんと思われるご老人の3人、そのご友人も連れていました。その時は気がつきませんが、大人の男の人は誰もいませんでした。おそらく少年のお父さんはその国に残って戦っているのでしょう。

彼らは(いや、彼女らはというべきでしょうか)非常に不安げな顔であたりを見渡していました。冬物のコートを着込んで、ニット帽をかぶり、スーツケースにかばん2つ、肩がけ鞄、そして一緒に連れてきた犬をケースの中に入れて。大量の荷物でした。

あまりにも大変そうだったので、そのお母さんに荷物を運ぶのを手伝いましょうか?(Can I help you with your luggage?)と言いました。身振り手振りで伝わったようですが、その時に気がつきました。当たり前のことですが、言葉が通じないのです。彼女は英語でThank you、ロシア語でспасибоと繰り返していました。おそらく、他に伝える術がなかったのでしょう。それでも、それは僕の側も全く同じでした。

そして、改札まで着くと、彼女らはボランティアの指示を待つことになったようでした。僕は何かできないか、と一瞬考えましたが、何もできない、ということを思い知りました。もし僕がアムステルダムに住んでいて、街のことにも詳しくて、成熟していれば、彼女らを助けることはできたかもしれない。例えば家の部屋を貸したり、何が必要かを聞いて用意したり、あるいは友人に頼んで食料を調達してもらう、などしてです。でも、僕はここではただの留学生。そして、目の前にはきちんと仕事をしているボランティアの方がいらっしゃる。「何もできない」というより、「何もすべきではない」の方が正しいかもしれない。そんな考えが頭をよぎりました。

結局、彼らの助けになるようなことは思いつかず、途方に暮れて、その場を立ち去ろうとしました。でも、それでも、1人の少年の不安そうな顔がどうしても頭から離れませんでした。私はスマホを取り出して、Google翻訳を開きました。そしてこう書きました。

I can’t do much for you but I will stand with you. Give this to that boy. He looks nervous and I want to reassure him.

当然英語は読めないので、翻訳してもらいました。そしてそのお母さんのところへ行って、この画面を見せました。その少年にこのお菓子を渡してほしいと言って、ドイツでお土産に買ったお菓子を渡しました。でも、Google翻訳を見せてもなぜか通じなくて、同行している別の女性が仲介してくれた。そう、僕はロシア語で書いてしまったのです。そのお母さんはロシア語ができないようでした。本来ならば、ウクライナ語で書くべきところだったのです。спасибо(スパスィーバ)と言われただけで、ロシア語が喋れると思い込んでしまった自分が情けない。

衝撃を受けた理由

結局、それ以上のことは何もできずに帰ってきてしまいました。今は少し冷静に、客観的になれていますが、当時の自分はかなりショックを受けていたと思います。帰りのトラムを間違えて終電を逃し、3,40分歩いて帰るくらいには、冷静さを失っていました。数日たって整理してみると、この現場に直面して僕がショックを受けた理由は2つくらいあると思います。

1つ目は、まずウクライナでの危機というものが、戦争というものが、これほどまでに身近に感じられるのだということ。日本にいた時は、ロシアは確かに近いけれど、同時にロシアは広大で、その西にある国のことなど、はるか遠くに思えます。言い方は悪いですが、「またロシアがあっちの方で戦争やってるな」くらいにしか思えませんでした。でも、今はウクライナとは陸続きで、その距離たったの2,000km。現に電車で来れる距離なんです。その道を通って、実際にウクライナからの避難民がオランダにやってきて、今自分の目の前にいるということ。これが僕にとっては大きな衝撃でした。

彼らは、まさに今自分の母国が文字通り破壊され、絶望的な状況に立たされている。きっと家族を残して逃げてきたのだろうと思います。スーツケースとキャリーバッグに入るだけの荷物を持って。家に置いてきた荷物は、ひょっとしたら爆撃で粉々にされているかもわかりません。それに比べて、自分はといえば、帰る家がオランダにあって、日本にもあって、自分は旅行の帰りで、手にはお土産を持っている。自分の国が、自分の家族が危険に晒された経験もない。そして僕たちは同じ列車に乗っている。この状況をどう考えたらいいのか、わからなくなってしまいました。

もう1つは、自分は本当に小さな存在であるということ。それは、大学で政治学を、国際政治学あるいは国際政治史を学んでいたからこそ、そう思えてしまったのかもしれません。国際政治学や国際政治史。それはどういう学問か?と言えば、今あるいは過去に世界でどんなことが起こったのか?を学ぶことで、どうしたら戦争を防ぎ、平和を作ることができるか?を考える学問だと思っています。そのために過去の戦争の歴史を、平和の歴史を、そしてその世界の趨勢を決めた出来事や人物の歴史を学んでいるわけです。

いろいろな時代の歴史を学んで分かることは、大国間の平和が一定程度保たれた時代もあれば、戦争が世界を支配し、多くの犠牲を出した時代もあるということ。そうやって、「どうしたら戦争を防ぐことができるのか」がわかってきます。分かった気になれます。それでも、そうやって勉強したとしても、いざこうした戦争の一側面を目の当たりにしたときに、人は思っているほどのことはできないのだということを思い知りました。自分は驕り高ぶっていたのかもしれないのだと。

それでも私にできることは?

一人の人間に平和を壊すことはできても、平和を作ることはできない」このことを、ウクライナ侵攻が始まって以来、強く感じています。例えば、今ここで政治指導者が核攻撃をすれば、一瞬にして人類を地獄の底に叩き落とすことはできる。でも、天国のようなユートピアを、全人類の力を持ってしても作ることができないのだとすれば、1人の人間にできないことなど、少し考えればわかるでしょう。

残念ながら、一人の人間にできることは限られています。私は無力感を感じていますが、それでも今考えてみれば、あの時、あの場所で、僕ができる最大限のことはできたと思っています。いや、むしろ、だからこそ無力感に苛まれたのです。一人の人間がいかに小さいか。世界の大きく急速な動きの中で、いかに人が無力な存在であるか。そのことを、いまさらながらに思い知るしかありませんでした。

それはきっと、歴史を通じても同じことが言えるのだろうと思います。人間の歴史においては、意図と結果が真反対になってしまうこともある。どんなに良い世界を築こうとしても、時にだれにも止められないほど大きな力によって、世界が大きく動いてしまうこともある。その時に、人は無力感を感じるのだと思います。一人ひとりにできる小さな積み重ねが、全く無駄であるとすら思える時もあるかもしれない。

しかしながら一方で、その小さな積み重ねが全く無駄かと言えば、そんなこともないのだろうと思います。私たちは、世界が壊れる瞬間にあまりにも衝撃を受けてしまうために、小さな努力が積みあがっていく過程を無視してしまうことがしばしばあります。戦争、災害、飢餓、感染症・・・我々をときに絶望の淵に追いやる出来事が起こる一方で、その裏で、少しでも世界を良い方向に導こうとする、尊い努力がなされている。そのことを、その努力を、私たちはときに見失ってしまうのです。

僕のしたことは本当に小さなことです。あの家族があの後どうなったのか、私にはわかりませんし、知る術もありません。でも、「何かをした」ことで、例えばその少年の頬が緩んだとか、そのお母さんが笑ってくれたとか、そういうことだけでも、成果として認めなくてはならない、認めてよいのかもしれません。仮に「何もできなかった」としても、だからこそ、「次こそは何かをしたい」と強く思う。そんなにちっぽけなことですが、そういう小さくて、泥臭くて、ささやかな努力を続けていくほかないのだろうと思います。綺麗事を並べているつもりはありません。むしろ諦めの境地の方に近いのかもしれません…。

希望という名の諦め、諦めの中の希望

平和を壊すことは簡単だが、平和を作ることは簡単ではない。でも我々は、できる限り平和な世界を作らなければならない。そのためにこれさえすればよい、という手立ては存在しません。「これをすればよい」ということをするのではなく――そうではなく、「これしかできない」ということを分かったうえで、それにもかかわらずその小さな努力を続けていくことが必要なのであり、それ以外に方法はないのだろうと思います。

いくら歴史を学んでも、いくら現状を分析しても、今すぐに平和をもたらすことはできません。むしろ、世界の歴史を、世界の現状を学ぶことは、人間の醜さや汚さに真正面から向き合うことであり、時にそれは大きな苦悩と苦痛を伴います。でも、そうだとしても、少なからぬ人がそれを乗り越えようと、あるいは外交交渉を行い、あるいは戦地に出向いて支援を行い、あるいは歴史を研究して政治指導者にその知恵を還元する、そうした努力を続けている、そうした側面に触れることでもあるのです。

今まさに起こりつつあるウクライナでの戦争。その現状を見れば見るほど、私たちは絶望の淵に突き落とされるような、苦悩に悩まされます。でも、それでも忘れてはならないのは、たとえ時間がかかったとしても、そうした小さい努力の蓄積が生み出すものも少なからずあるのだろうし、そうした努力を続けている限り、人間も、この世界も、まだ捨てたものではないのだろうということです。

この世界は善のみによって成り立っているわけでも、悪のみによって成り立っているわけでもない。物事の多くは善とも悪とも呼べるのであって、それらが絶妙に組み合わさっているのがこの世界なんだと思います。

だからきっと、僕がしたことも、決して無駄ではないし、そうした小さい努力が生み出すものもきっとある。そう信じたい。いや、そう信じるしかないのだと思います。そこで「希望を失わないこと」「諦めないこと」。あまりにも当たり前に聞こえるかもしれませんが、このことは私たちが思っている以上に必要なのではないか、と思っています。

そのときに思い出したのが、昨年のゼミで最初に読んだ高坂正堯『国際政治』の一節を思い出します。彼は有名なアメリカの外交官である、ジョージ・ケナンの業績を挙げながら、「できることをしながら、すぐにはできないことが、いつかはできるようになることを希望」することの大切さを説いています。

戦争はおそらく不治の病であるかもしれない。しかし、われわれはそれを治療するために努力しなければならないのである。つまり、われわれは懐疑的にならざるを得ないが、絶望してはならない。それは医師と外交官と、そして人間の務めなのである。

諦めない」「希望を持ち続ける」などという言葉は、ともすれば無邪気な綺麗事で、何も言っていないに等しいと思われるかもしれない。確かにそうです。でもそれは、そのほかに道がない、という失意のうちに、それでも「諦めない」と言い続けるほかない、というある種絶望的な状況、そのぎりぎりのところで紡ぎ出される言葉なのではないか、そう考えています。「希望」というこの言葉は、「諦め」と表裏一体である、と言ってもいいかもしれません。つまり、一見無邪気にも見える「希望」という言葉、そのなかに「諦め」を見出す鋭い目を持ち、それにも関わらず「諦め」のなかに「希望」という名の火を灯し続けるということなのだろうと思います。

話がややこしくなってきたので、そろそろ終わりにしたいと思います。僕の今回の経験も、次につなげられたらいいと思います。例えば、ボランティアの人に、何かできることはありませんか?と声をかけるだけの勇気を持ちたい。それ以上のことができたら本当はいいけれど、「何ができるか」それ以上に、「何ができないか」を冷静に見極めて、できることだけをすること、それ以上のことをしないことも、必要なのだろうと思います。そうした小さい努力を積み重ねていくことが求められているのだろうし、それ以上でもそれ以下でもないのだと、改めて思ったのでした。生きるって難しいですね。

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