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娘と子猫




1


 華奢な肩の上に可愛げな子猫を乗せた女の子が、健一の前方で何やらじゃれあっている。その辺から見つけてきたのだろうか、それとも飼っている猫だろうか、女の子の首の後ろから背中にかけて、尻尾をべたっとつけて愛嬌を振りまくその姿は、通りすがりの大人たちを癒してくれていた。
「かわいいね」
 思わずそう話しかけた。女の子はにこっとしたまま何も言わず、肩の上の子猫に何やら呟いている。これくらいの年の女の子は自分の持っている宝物を誰かに見てもらいたいという気持ちが強いのだろうか、近くでその様子を見ているだけで、何故だろうほっとした。

 世間ではフリーターと呼ばれる立場に身をおいている健一は、大学の頃と同じように親元から離れて暮らしており、就職先が決まらないままアルバイト生活でなんとか生計を立てている。アルバイトといっても時給800円ぐらいの簡単なもので、家賃やら生活費などを引いてしまうと、残りは貯金するには及ばない程度のものだ。景気が回復しているのかどうか疑問だが、えり好みしなければある程度の職にはつけるという状況。一度でも独立してみたかった健一にとって、サラリーマンという安定した仕事よりも、いろいろ選べてさらに敏速な変化が可能なフリーターと呼ばれる職業の方が都合が良いのだ。
「この猫、お譲ちゃんの?」
 健一は、女の子の目線の高さに合わせて、その場にしゃがみこんだ。
「ううん、あそこからついてきたの」
 女の子は健一の前方に見える公園を指差した。
「そっか、すごくなついてるんだね」
「うん」
 女の子は肩越しに子猫の両腕を握ったまま、自分の頭を前方に倒した。子猫はとくに動く気配はない。見ようとしても首の後ろに居座って離れず、その姿を見ることができない。どうにか動かそうとする女の子、離れない子猫。
 さっき出会ったとは思えないような、まるで姉妹のような女の子と子猫のじゃれあう風景があった。

 最近、独自で開拓し、とあるビジネスを始めた健一。ビジネスといってもたいしたものではない。少なくとも元手いわゆる資金やら経費をほとんどかけずに開業することができ、さらにコンスタントに売り上げの見込めるビジネスだった――直営ポスティング。依頼者から引き受けたチラシを各家庭の郵便箱に配る、といういたって地味で安価な仕事である。だいたい一日かけて相当数回ったとして1~2万円程度の収入になる。アルバイトの空いた時間にできるということと、特に人に使われたり接客したりする必要がないという魅力もあった。
 ただ広告を出したいという顧客を捕まえるのが難しい。初めのころは当然ゼロ。ネットで独自の広告を出したり、地元の企業やお店を一軒一軒回り、いかに速く安価で確実にチラシを配れるかということをアピールした。そうこうするうちに安定して依頼してくれるお得意様といえる顧客を獲得することができた。開業したてのころは、チラシを効率よく配るためになるべく大きめのマンションに狙いを定めていた。それは郵便受けがまとまった場所にあるということが第一の理由である。そのせいか比較的に若い世代の家庭に配布することになった。そしてそういった世代の住むマンションには小さい子供を世話している主婦層が多い。
 毎週のように郵便箱にチラシを入れにやってくる健一を知っていたのかどうか、子供と近くの公園で遊んでいる主婦達が、健一によく話しかけてくれるようになった。チラシ配布の依頼主から、先週はだいぶ客足が良かった、などという連絡とともに、次もまた頼むよといった要請は、健一の訪問販売的なサービスによるところもあった。特に別料金としてはもらっていなかったが、毎回のように依頼してくれるお得意様に関しては、こういった偶然居合わせた主婦などに対しての宣伝も忘れなかったのだ。健一のこの気の利いたサービスは意外と受けが良く、ただ単にチラシを配るというのではない、もともと水関係のアルバイト経験もある健一、そういった話し相手に飢えている女の相手はさほど苦にはならなかった。そして客と依頼主との間接的なコミュニケーションを図ると同時に、自分自身の信用と実績も重ねていった。
 最近では独自のホームページ上で広告を出す会社や自営業者が増えているが、地方都市やネット世代ではない年配の人々が多く暮らすような地域では、ネットよりもむしろこういうやり方のほうが宣伝効果が上がるときもある。そしてわざわざ足を運んでくれたという古典的な営業努力も、このネット全盛の便利な時代にはかえって新鮮に映るということもあった。
 平日の昼間、この時間帯に街中で捨て猫とじゃれあう女の子。都心からのベッドタウン開発とともに、小さい子供が一人で遊んでいる街の姿があちこちに見られた。
 特にどうといった話をすることもなく、その女の子はその場から去っていった。

 健一にはポスティングとは別にもう一つの仕事がある。ある日、旦那が浮気していたらしく、一人寂しく郵便箱を空けに階段から降りてきた主婦と出くわした。強烈な酒の匂いがしたため、健一はその主婦に強い印象をもった。足もふらついていたその主婦を抱きかかえるようにして部屋までつれていった健一。酔っ払い、さらに旦那の悪口をさんざん聞かされ、その後、女とベッドをともにした。どちらかというと抱かされたと言ったほうが正しいかもしれない。
 それから主婦は、健一が郵便箱にチラシを入れに来るのを待つようになり、そのたびにセックスを強要するようになった。旦那から愛されないその体を癒すように愛撫した健一。若い新鮮ともいえる体とその年齢にしてはねっとりとした愛撫の虜になってしまった主婦。いつの頃からか、お金を払ってでも来てもらうようになっていた。
 ある意味、旦那への暗黙の仕返しなのだろうか、それに加担させられていた健一だった。 そしてそれは昼間の自宅マンションからホテルへと場所を移して行われるようになった。若い男が中年女のマイカーに乗せられていく姿は、それを見た人々にどのように映っていたのだろうか。実際にその行為が終わった後には金銭の授受が行われた。とりわけホストと名乗っていなかった健一、受け取ってもせいぜい数万円であった。それでもそのときの健一にとっては十分な金額だった。
 若い男を欲している主婦層が、昼間に時間をもてあましているのではないかと考えた健一は、自分を売り込むチラシも同時にポスティングすることにした。異性のお悩み引き受けます――こういう歌い文句でチラシを作成した。ほとんどの相談内容が、夫の浮気もしくはセックスレスに関するものだった。
 すべてのケースがうまくいく訳ではない。異性関係の相談を持ちかけられる場合がほとんどである。一方では、健一の話のうまさとそのルックスから、寂しさゆえに身をゆだねてしまう女性もいた。それとは別に、興味本位としての客も少なからずあった。一回そういう関係になったからといってその後、その女性に健一のほうから連絡することはない。相手からの連絡を待つのだ。連絡があると待ち合わせ場所まで迎えに来てもらい二人でホテルに行く。二回目からは女の自宅で会うということはしない、そう決めていた。
 子猫とともにその場を楽しげに去っていく女の子を見送りながら、健一は、さてっ、という一言とともに、いつものように郵便受けにチラシを撒きに行った。週一回のポスティングと同じぐらいの頻度で発生する体を売る仕事、両方あわせても一ヶ月で若いサラリーマンと同じくらいの収入になるかならないか程度のものだ。必要なときにいつでも話し相手にでもなれますというふれ込みがセールスポイントなのだ。ほぼセックスボランティアに近いが、別の言い方をすると使い捨てハズバンドとでも言えるかもしれない。
 健一の自転車は、専用にチューンナップされた特別仕様車である。ポスティングの仕事をするようになり、その配布部数を伸ばすためと、唯一の商売道具である自転車にお金をかけることにした。自動機のついた乗り物をあまり利用しないことにより、健一の肉体はもう一つの仕事にもプラスとなり働いている。昼間は自転車をこぎ、さらにマンションやアパートの階段を上り降りして下半身が鍛えられ、夜は自宅で上半身をトレーニングする。今やそれも大きな売りの一つなのだ。

「おはようございます」
 駐輪場にて子供の自転車に空気を入れている最中なのだろう、しゃがみながら自転車用のミニポンプをこいでいる主婦と思われる女性がいた。後ろから男性の視線を意識しているかのような、少しばかり躊躇したその尻の突き出し方も、若い健一の性欲を駆り立てるには十分だった。
「お手伝いしましょうか?」
 その言葉を期待していたかのように、30歳半ばくらいの女性はそう言ってくれた健一に対して静かに後ろを振り向いた。
「すみません――」
 健一のことを噂か何かで聞いたのであろうか、そのへんで子供と遊んでいる主婦たちとは何となく異なる雰囲気を持ち合わせていた。
「あのぅ」
「はい?」
 健一がそう言いながらその女性を見ると、値踏みしているかのような女の視線がそこにあった。
「あっあの……」
「よろしいでしょうか?」
 頬を赤らめ、伏目がちにそう切り出してきた女に対して、
「ええ、大丈夫ですよ。では……」
 そのまま女の後についていった。
 周りに悟られないように静かに、ささっ、と歩いていった女の車に乗り込むと、そのまま近くのホテルへと向かった。
 意外とラブホテルに入るのは初めてだったらしく、備え付けのカラオケセットやらバスルームを興味ありげに見回っていた。健一はというと、中年にもなったこの女のそのはしゃぎぶりを傍観しながら楽しんでいた。しっかりしていそうな中年女が、子供のようにはしゃぎまわるその姿――。
 ひと通り見終わると、少しばかり疲れた感じの様子。いざ健一の手が彼女の敏感な部分に触れると、ビクッ、と僅かばかり緊張していた。旦那以外の男性だからというわけでもあるまい。少女のように頬を赤らめていた。
 その見た目の年齢に似合わず、愛おしささえかもし出すその初々しさに、少し痛んだ髪の毛のかかった首筋に、健一は軽いキスを何度もした。
「うん……」
 感じているのか――若い女の吐息とはまた異なる、今まで発掘されてこなかった別の風味を発見したかのような楽しみがあった。
 こういう女に当たったときの健一は気をつけねばならなかった。惜しげもなく純粋さに回帰した中年女のそういった振る舞いが、どうしても健一の女性に対するいとおしさをかき乱す要因なのだ。年を重ねた女によってはわざとらしい可愛さ、で終わるその仕草も、この女の場合にはプラスの方向にその印象を持たせるものだった。
 自然な可愛げのある女――健一の女に求める重要な要素のうちの一つだ。それは年齢、ルックス、性格、如何に関わらず、そんな瞬間を少しでも感じ取れてしまった時に、たちまちそれが恋愛に発展してしまう怖さを持ち合わせていた。
「じゃね」
「それじゃあ」
 健一が駐輪場に留めてあった自転車にまたがると、女はマンションの階段を上っていった。
 配らなくてはならない残りのチラシがある。
 近くのアパートに向かって自転車のペダルを漕いでいった健一。
「ミャー」
 健一の目の前に見覚えのある子猫が飛び出してきた。この前、少女とじゃれあっていた子猫ではないだろうか。ただそこには少女の姿は見あたらなかった。
 自転車の前を横切ろうとしたのか、それともわざと健一の前に姿を現したのか、中途半端なタイミングで目の前に現れた子猫。
「ミャー」
 お腹が空いているのか?
 手を差し出すと、餌の匂いを嗅ぐような仕草をしたあと、ペロペロッと、健一の指先を何度も舐めた。何も持っていないと分かると、そのまま健一の足元に寝そべってしまった。のら猫にしては人間に慣れすぎている。
「ミャーゴ?」
 女の子が近くの公園っぽい空き地から飛び出してきた。
「あっ、この前の……」
 健一には目もくれず、ミャーゴと呼んでいた子猫を抱きかかえようとしていた。その様子をしばらく傍観していた健一は、静かにその場を立ち去ろうとした。
「ねぇ」
 女の子が健一の後ろのほうから突然話しかけてきた。
「うん?」
 健一は後ろを振り向いた。
「お母さんとどこ行ってたの?」
 それを聞いた健一は、一瞬何のことか分からなかったが、女の子のお母さんがさっきまで健一とホテルに一緒にいた女だということを理解した。
 女の子の目には、健一を非難するかのような鋭い感じ、そして少しばかり泣き出しそうな複雑な表情を含んでいた。
 健一は一瞬、考えると、
「お母さんとちょっとお話ししてたの」
 そう言ってごまかした。
「ふーん」
 女の子は、ちょっとだけほっとしたかのように、子猫の喉元から胸にかけて小さい手でさすっていた。子猫は目を細め、気持ちよさそうに首を伸ばしていた。
「じゃね、ばいばい」
 健一はそそくさとその場を去った。
――あの女の娘だった。
 わが子を近くの公園にほったらかしにしておいて、自分は若い男とホテルでセックスに興じる。健一自身もソレに十分関わっているではないか。あの少女は、少なくとも自分のことを疑っている。
 何かしら母親の変化に気付いていたのだろうか、そういった子供のセンサーは大人が考えているよりもはるかに敏感だ。


2

――数日後。
「あっ、渡辺です、今からいいかしら?」
 この前の娘の母親からの電話だった。
 一時間ぐらいした後に、女は健一をピックアップしてそのままホテルへと向かった。その日はなんとなく女の機嫌は良くなかった。
「ふーっ」
 ホテルの部屋に入るなり、どこから取り出したのかいつの間にかタバコをふかしていた。
「たばこなんて吸うんだね」
「そうね」
 以前とは明らかに異なる女の印象を健一に与えた。自宅でも隠れて吸っているのだろうか、キスをした時のヤニ臭さが、健一の唇と舌につきまとうような嫌な感触で残った。初めて唇を合わせた時にはなかった。
「あんまり体に良くないよ」
 思わず出た言葉だったが、女には癇に障ったらしい。
「あなたに言われる筋合いじゃないわよね」
 初めて会ったときの印象からはほど遠い女がいた。
「そうかもね」
 その日のセックスはまるで事務的なものになった。少なくとも健一にとってはそんな感じだった。女はというと、いつものように悲鳴にも似たあえぎ声とともに果てていた。普段のおしとやかな振る舞いとはうって代わって、ソレは激しくその要求もまた同じように激しいものだった。
「この前、あなたの娘さんが子猫と遊んでるとこ見たんだけど――」
「加代のこと?」
「たぶん――その子かな」
「あの子、今の亭主との子じゃないのよ」
「そう……」
 だれと出来た子供なのだろうか。
 どういういきさつがあったのかは知らない、ただ、それ以上の詮索はしなかった。
「あなた、こういうことやってる割には、ふつうの人っぽいわね」
 女は別れ際に健一にそう言った。
「はあ」
「見た目と違ってね」
 健一の頬にキスをしてそのまま車に乗り込むと、健一の立っている場所から去っていった。
 頬っぺたに付いた薔薇色の口紅を、手のひらでこすって取り除いた。
 初めのころはおしとやかな団地妻だと思っていたのに、今や男買いも平気でやってしまう仮面をした女だと思った。そしてそれにあやかっている自分もいる。

 次の日健一は、いつものように片手にチラシを抱えながらポスティングをしていた。
「ねぇ、おじちゃん、何でいつもここに来るの?」
 女の子が健一の顔を見上げながら尋ねた。今までおじちゃんと言われたことのない健一は、小さい女の子にもかかわらず、ちょっとだけむっとしながら答えた。
「あのね、お嬢ちゃんの住んでるマンションにね、こういったチラシを配りに来てるんだよ」
 手に持っているチラシの束を女の子に見えるような高さに置いた。
「あっこれ、知ってる」
 先週ぐらいに配った広告を覚えていたのだろうか、女の子は一枚のチラシを指差しながらそう言った。
「お嬢ちゃんのお父さんは何やってるの?」
「お父さんはいない」
 女の子はそのチラシの絵柄をじろじろと見ていた。
「一緒に住んでいないの?」
 健一はあえてそう聞いた。
「お母さんと知らないおじちゃんと一緒にいるけど」
「そう」
 このまえ女が言っていたことと同じだった、昔の旦那との間に出来たのがこの子なのだろう。
「ねぇ、このまえの子猫はどうしたの?」
 女の子は健一の言ったことなど聞いていなかったようで、いつのまにか近くの空き地へと行ってしまっていた。

――一週間後。
 プルルルルルル――。
「はい、相川です」
「渡辺です。あの、今からいいかしら……」
「はい、ではいつもの場所でお待ちしています」
「あっ、ちょっと待って、今日はこちらに来てくれないかしら」
「はぁ、でも万が一――」
「いいから、お願い」
 電話は切れた。
「しょうがない、ひとっ走り行ってくるか」
 相手の自宅もしくは自宅近くにて待ち合わせるということはめったにしない。
 どういう訳だろうか、今回は彼女の自宅まで来てくれ、とのご要望だ。チラシ配りで近くを通ることはあったとしても、発注先の女の自宅近くにて、その車に乗り込む姿などは誰にも見られたくないという理由からこう決めていた。そういう噂は広がりやすいのだ。
「なに考えてんだろう」
 いくら常連客とはいえ、何かまずいことでもあるんじゃないだろうか、健一は何となくいやな予感がしていた。
 ピンポーン。
「はーい」
「あら、早かったじゃないの」
「ええ、まあ、急いできましたから」
「じゃちょっと上がって」
「はい……」
 2LDKの部屋、ベランダには洗濯物が干してある。よくあるマンション住まいの家庭といった雰囲気だ。
「今日は何か?」
 いつもとは違った感じがした健一は、そう切り出した。
「ええ」
「実は……お願いがあるの」
――来た。
 健一は、心の中でそう叫んだ。こういう切り出し方で来るお願いに、ろくなお願いはない。少ない人生経験からでも、何かあるかもしれないという胸騒ぎを覚えた。
「えーっと」
「はい」
 気を持たせる女のその言い方に、思わずごくりと唾を飲み込んだ。
「加代のことなんだけど……」
「加代? ああー、あの子ですか。あの女の子が何か?」
 意外とどうってことのないお願いっぽいので、少しばかり安心した。
「あの子の面倒を見てくれないかしら?」
「はぁー、面倒というと?」
「ええ、実は夫が勤めを辞めちゃって、私が働くことにしたの、それで――」
「あなたが働きに出るので、私に娘の面倒を見てくれと?」
「ええ」
 体を買っている男のもとに自分の娘を預けるという考えが、どこから来るのか分からなかった。第一、夫に面倒を見させるということは考えつかないのだろうか。
「旦那さんがいるでしょう?」
「ええでも、娘が夫のことを嫌っているのよ、だから――」
「そうなんですか」
 確かに加代と呼ばれる女の子は、今の旦那のことを知らないおじちゃんとも呼んでいた。お父さんとして見ていない、嫌っているということは健一も承知の上だ。
「でも、子供を預けられる施設なんていくらでもあるでしょう?」
「そうなんだけど……」
「考えてくれないかしら?」
「はぁ、一応考えますけど」
 健一は曖昧な返事をした。
「それで、お幾らぐらい頂けるんですか? もし私が面倒を見た場合には」
 健一は一応、聞いておこうと思った。
「一日面倒見てもらって五千円でどうかしら?」
「五千円?」
「あの子だってもう赤ん坊じゃないんだし、ある程度は一人でできるから」
「じゃあ、私は必要ないんじゃ――」
「あっでも、ほら食事とか、いろいろとね」
「はぁ、分かりました、じゃ考えときますから」
 断るつもりでそう言っておいた。
「じゃよろしくね」
 これだけの用事で呼びつけたんなら、まったくの無駄な時間になりそうだった。ぶつくさと文句を言いながら健一はマンションの階段を下りていった。
 下の方から見知らぬ男が上がってきた。
「こんにちは」
 健一はチラシ配りをやっているときと同じような感覚でそう言ってしまった。その男は健一の顔をじろじろと見ながら、すぐ脇を通りすぎて行った。何者だこいつは? と言わんばかりに睨みつけるような感じだった。
 エントランスを出た健一は、振り返るようにしてそのマンションを見上げた。さっきの男が、健一の出てきたドアつまり女の部屋のドアから入っていくところが見えた。
「あの男が旦那か」
 健一が考えていると、男がそのドアからすぐさま飛び出してきた。
「あっの野郎」
 血相を変えた男がこっちを見下げている。
「げっまずい、部屋の中に別の男がいたという形跡でも見つけたのだろうか」
 健一はあわてて走りだすと、留めてあった自転車のところに行った。ロックを解除した後に思いっきりペダルをこいだ。
「くそっ」
 言わんこっちゃない、こうなることを防ぐために自宅で会うことを避けていたのだ――。
「ふーっ、ひやっとした」
 ある程度の安心できる距離まで逃げてきた健一は、近くの自動販売機でペットボトルのミネラルウォーターを買ってがぶ飲みした。
「あそこは、もう行けない」
 女がどう言おうと、旦那に見つかってはどうしようもない。ここはさっきの頼みごともとうてい引き受ける訳にもいかなくなった。
 お得意さんを失ったと同時に、少しばかりの安堵感もあった。あの女はなんとなく男を惹きつける力をもっている。健一もその魅力に惹きつけられていたのかもしれない。
「また、他を探そう」
 そう呟きながら自転車を軽くこいでいた。


3

――次の日。
 ピンポーン。
「はい」
 ドアを開けた健一は、目の前の女の子を見て驚いた。
「こんにちは」
「こっ、こんにちは……」
 なんと、あの女の子がここにいるではないか。
「あれ? お嬢ちゃんなんでここに?」
「お母さんが、ここに行けって」
 女の子はそう言うと住所の書かれた地図を差し出した。ネットで検索して出力した地図だった。
「今日から、昼間はここにいろって」
「で、来たの?」
「うん」
――参った。断りの電話を入れる前にこれだ。
 おそらく旦那から自分のことを聞かれたのだろう。仕事を辞めた旦那は、一人あのマンションに娘といなければならなくなった。娘はあの男のことを嫌っていた。あの女は娘のためにと、ここに寄こしたに違いない。だとするとこの娘に帰ってくれと言えないではないか。
「ここがよく分かったね?」
「うん、この子もいっしょだけど」
 女の子の背中にこびりつくようにぶら下がっている子猫を見つけた。女の子の洋服に爪を立ててこちらを見ている子猫、笑っているように見えた。
「そうっか」
 まいったなこりゃと思いながらも、再びその女の子と子猫のじゃれあう姿を目にすることができたといううれしさからか、何も考えずに部屋の中に入れた。
「ジュース飲む?」
「うん」
 冷蔵庫から缶ジュースを取り出すと、そのまま女の子に渡した。
「ありがとう」
 他人の家に入ることが少ないのか、物珍しそうに部屋の中を見回している。子猫はというと、テーブルの足となにやら格闘している。
「ここ、おじちゃんの家?」
 また、おじちゃんか――。
 相変わらず変わらないその呼び方に、少し落胆しながらも、
「そうだね」
「ふーん」
 女の子は関心するようにしていた。
「お名前は何ていうの?」
 健一は知っていたが、そう聞いた。
「加代」
「加代ちゃんか、おじちゃんは健一って言うんだ」
「ケンイチ?」
「そう、よろしくね」
「健一くん」
「そだね」
「この猫にはお名前はないの?」
「えっとね、ミャーって泣くからミャーゴって呼んでるの」
「ミャーゴか。あのね加代ちゃん、お兄ちゃんが仕事に行っている時もここに居ても構わないんだけど、できれば外に出ないでね。迷子になると困るから」
「うん、わかった」
 とりあえず何日間か様子を見よう、健一はそう考えていた。

 女の子はその日から健一のマンションに住むことになった。ここから女のマンションまで行ったり来たりするのが面倒そうだったし、女の子の安全を考えて、健一のところに泊めることにしたのだ。
 しばらくして、女からの電話があった。
 プルルルルルル――。
「はい、相川です」
「ごめんなさい、こっちに置いとけなくなって」
「あのう、こっちにも仕事があるし――」
「あの子、けっこう一人のことが多かったから、とくに面倒はかけないから」
「そうは言っても……」
「あの人がいるから無理なんだよ、一日六千円でいいからさ」
 金の問題ではない。が、この子をあの男と二人にしておくのはまずそうだった。
「親戚の家にでも預けてるって言うから」
「そうですか……なんか人助けみたいになっちゃうな」
「頼むからさ」
 ベランダで子猫と遊んでいる女の子を見ているうちに、健一はしぶしぶ了承していた。
「数日間だけですよ」
「ああ、わかってるよ、探しとくから、預けれる場所を」

――一週間が経過した。女からの連絡はない。
 いつもと同じようにチラシを配りにあのマンションの前を通ったが、まったく人の気配すらない。この前みたいにあの旦那に出くわすのが嫌だったため、その日はそのまま帰ってきた。
 プルルルルルル――。
「はい、相川です」
「渡辺です」
「ごめんなさい、いろいろあって連絡できなくて。あの子は元気?」
「一回でも、こちらにいらしたらどうですか?」
 健一は女にここに来てもらうように言った。
「ちょっと忙しくて……ごめんなさい」
「そうですか」
「もうしばらく置いといてくれないかしら」
「私は構いませんけど、最近、加代ちゃん、たまにぐずるんですよ、お母さんはどこって。やっぱり良くないと思いますよ」
「そう……あの子――」
「とにかく、どういう事情か知りませんけど、一度こちらに会いに来てくださいよ」
「そうねぇ」
「いいですね」
 念を押すと、健一はそのまま電話を切った。
「お母さん?」
 そばにいた加代が健一に聞いた。
「うん」
「おじちゃんって、お母さんと結婚するの?」
 加代は健一の顔を見ながらそう聞いた。
「おじちゃんはしないよ」
「おじちゃんと結婚すればいいのに」
 加代はそう言いながらミャーゴの首のまわりをなでた。
「お母さんにはお父さんがいるんだよ」
「あのおじちゃん?」
「そう」
「あのひと、きらい」
「どうして?」
「だって……」
 加代は下を向いたまま黙ってしまった。
「嫌いなの……」
 健一はそれ以上聞かなかった。
「ミャーゴはうちの家族の一員だね」
 健一は加代のなでている子猫の背中をさらになでてあげた。加代はお母さんのことは嫌ってはいない。しかし同棲している新しい旦那と思われる男は確かに嫌っているようだ。あの人相のままの人間だとしたら理解できないこともない。ただこの子が、このままずっとここにいるというのもあまりいいことではない。
「加代ちゃんのお父さんはどんな人なの?」
 健一は思い切って聞いてみた。
「お父さん?」
 少しびっくりした様子でそう答えた。
「そう、お父さん」
「えっとね、大きくて、うーんとね――」
 そう言いながら、何かを思い出すようにしていた。
「でも、もういないよ」
「どこ行ったの?」
「死んだんだって」
「そう」
 加代のお父さんは死んだのか。せめてお父さんでも探し出すことができればと思っていたのだか、死んでしまっていてはどうしようもなかった。
 この子にとって身近な肉親はお母さんだけってことになるのか。そしてそのお母さんが別の男と同棲している。自分の娘をほっといて男買いしているくらいだから、その状況の悪さは想像がついた。自分が助け舟を出すしかないのだろうか。

――何の連絡もない数週間後。
 ピンポーン。
「はい」
「あ、相川さんですか、こちら警察のものですが」
 厳しい顔をした警察官が数名、ドアの前に立っていた。部屋の中を一通り見回して、加代がいることを確認したあと、
「事情をお伺いします」
 警官は、健一の腕をとった。
「おじちゃん……」
 加代が心配そうに後ろから呟いた。
「心配ないよ、すぐ帰ってくるから。ちゃんと鍵かけて待っててね」
「おれは何も知らないよ」
「ああ、分かってるよ。ただ子供を連れ込んでいたとなるとな」
「あっ、あの子は、彼女に頼まれたんだよ」
「そうか、それは後でゆっくり聞くよ」
 手荒くパトカーの中に連れ込まれた。
「何したって言うんだ、俺が!」
 あの女のマンションの部屋の中で事件が発生した。同棲していた男が何者かに刺されたらしく部屋の中で死んでいた。あの女は現在、失踪中らしい。
 同じマンションに住む、かつての健一の客が、考えられる彼女の潜伏場所として、ここの住所を警察に教えたらしいのだ。

――警察署。
「それで、あの子を引き取ったって訳か?」
「引き取った訳じゃない、預かってるんだよ。あの女が引き取りに来るまで」
「そうか」
「そうだよ、あの母親がいなくなったんだ、この事件のせいで。可哀そうに――あの子はお腹をすかせて一人寂しく待ってんだよ!」
 健一はあえて強く言った。
「大丈夫、すぐに返すから」
「ったく、なんで俺がこんなところに連れてこられなきゃいけねぇんだよ」
 健一は愚痴った。
「ひょっとすると、あの子の父親が来るかもしれんから、気をつけといてくれないか」
「父親?」
「ああ、あの子の実の父親だ」
「えっ……たしか、死んだって聞いたけど」
 健一は少し驚いた。
「そう言い聞かせてたんだろうよ、その母親が」
「その元旦那が、昔ちょっとやらかして、今もまだ逃走中なんだよ。あいつが今の同棲相手を刺し殺したんだろうな、きっと」
 その刑事いわく、女の元旦那というのが、昔殺人事件を起こした挙句に逃走していた。元旦那が逃走して何ヶ月もしないうちに新しい同棲相手を見つけたあの女は、加代とその男と3人で暮らすようになった。しかし男は加代のことが気に入らない、加代は次第にその男を避けるようになっていた。
 実は今の男は単なるあの女の同棲相手であり、元旦那との籍は抜かれていないらしい。つまり逃走しているその男は元旦那ではなく、今でもあの女の旦那らしいのだ。そして最近になって、その旦那が突然帰ってきた。その場に居合わせた現在の同棲相手に逆上した旦那が、その同棲相手を刺し殺したのではないかというのだ。
 タイミングが悪ければ自分もそうなっていたはずだ、健一は鳥肌が立った。 
「じゃ、あの女は?」
「おそらく、旦那と逃走中だろうな」
「やつらの子供を引き取りに、あんたのマンションに来るかもしれん」
 健一はぞっとした。いくら何でも、人殺しの旦那とあの女が来るとなると――第一、そんな親のもとに、あの子を返すなんて。
 加代のことを思い浮かべながら、健一はなにかいい方法がないものか考えていた。人殺しとはいえ、加代の実の親……。
「とにかく、今日は返してもらえませんか?」
「じゃ、何かあったら連絡して下さい。一応、お宅の周辺に張り込ませますので」
 刑事は名刺を差し出した。健一は思わず、出張ホストまがいのほうの名刺を出そうとしたのだが、あわててひっこめるとポスティングの名刺を出した。
「ただいま」
 テレビのアニメを楽しそうに見ている加代を確認した後、
「ふーっ、セーフ」
 加代がそこに無事に居たということに、ほっと胸をなでおろした。
「ここ数日間は休業だな……」
「おじちゃん、何か悪いことしたの?」
 心配そうにたずねる加代の顔があった。
「大丈夫、何もないよ」
「ふーん」
 加代は、引き続きテレビを見ていた。
「この子の親か……」
 かわいそうな子だな。

――数週間後。
 プルルルルルル――。
「はい、相川ですけど」
「あっ、あんたかい?」
 聞こえないくらい小さい声だった。
「どちらさまですか?」
 あえて聞き返した。
「渡辺だよ」
 声が少しだけ大きくなった。何かにイラついている様子だ。
「詳しくは言えないけどさ……ちょっとあの子を引き取りに行けなくなっちゃったんだよ」
 女の声が僅かに震えている。
「あの子って、加代ちゃん?」
「ああ」
「ちょっと、そっちには戻れないんだ」
「あんた達ですか、あの男を殺したのは?」
 女はしばらく黙ったあとに、こう答えた。
「そうか……そこにも警察の奴ら、来たのか」
「ああ、いろいろ聞かれたよ。それで、あんたの旦那とやらのこともね」
「ちっ」
 女の舌打つ音が聞こえた。
「あの子にはそのことを言ったのかい?」
 女は心配そうに聞いた。
「言ってないよ、何も。あの子は、あんたとあの男が今も一緒に暮らしてるって思ってる。そして、あんたの本当の旦那、つまりあの子の実の父親も死んだって思ってるよ」
「……」
「そうかい」
 安心したように言うと、女はしばらく考え込んでいた。
「今どこに居るんですか?」
 健一の質問に対して女は答えなかった。しばらくして、
「お願いがあるんだけど」
 この女から頼まれるのはこれで2度目だ。
「あの子を預かっていて欲しい。いつ迎えに行けるか分かんないけど、預かっていて欲しいんだよ」
「預かって欲しいって?」
「ああ」
「……」
 しばらくの沈黙の後に、女は静かに語りだした。
「うちの亭主が、いきなりあのマンションに帰ってきちゃったんだよ。そんとき仕事を辞めたあいつもそこに居合わせたんだ。警察から聞いたかもしれないけどさ、うちの亭主は人を殺して逃走中だったんだ。血の気が多いからね二人とも……取っ組み合いなってさ――そしたらあの男、包丁持ち出しやがって、うちの亭主に警察に突き出してやるって言いだしやがって」
「わたしも、まだ未練があったんだろうね、亭主のほうをかばっちゃって、あの男を後ろから――」
「じゃあ、あんたが?」
 健一は驚いたような口調で聞いた。
「そうなるね」
 女は今までとは異なる低い声でそう答えた。
「じゃ、あんたら……」
「ああ、救いようがないんだよ」
 女は観念したかのようにこう言った。
「うちら二人とも、人を殺めた」
 女はしばらく考え込んだ後、
「うちらの子として、あの子を育てられない……」
 女は呟いた。
「ごめん……加代……」
 泣きながら、声が震えていた。
「加代ちゃんにはどう説明すればいいんですか、いったい?」
 笑いながらテレビを見ている加代を後ろに感じながら、健一は静かに聞いた。
「し、死んだ、って、言っておい……」
 言葉になっておらず、女の悲痛な声が聞こえるだけだった。殺人者の両親をもつ娘、として育って欲しくないのだろう。
「……」
 健一はなるべく冷静に考えようとしたが、結局は何もできなかった。
「お願いだよ、うちら二人分の命じゃ、償えないかもしれないけど」
 女はそう言うと、電話は切れた。
 それ以来、何の連絡もない。警察の捜査も行き詰まりかけているようだった。
 そして数ヵ月後、北海道の網走湖畔にて2人に似た男女の焼死体がレンタカーの車の中から見つかった。








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