「国は文化芸術を救えるか」に読み取れる勘違い。救うべきは「人」と「生活」である。

テーマはこのニュースです。

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik20/2021-02-14/2021021413_01_1.html?

長文なので、最後まで読まれずに批判されたくないので、先に主題を書いておきます。

支援すべきは<文化・芸術>そのものではなく、<文化・芸術分野に携る人々の生活>であるということです。

このキャンペーン、基本的には賛同します。ですが、<文化・芸術>を前面に押し出して訴えているのがキモいというか、コスいというか。「芸術の灯を消していいのか!」みたいな主張は、<我らこそが文化・芸術>って言ってるみたいにみえて、なんかナルいなぁ〜って思ってしまう。<文化・芸術>って言葉に酔ってない?みたいな。

そもそも、芸術ってそんなふうに守られるべきものなのか。バッハの音楽みたいに権力者や金持ちをパトロンとして育ってきた芸術はともかく、ほとんどの<文化・芸術>と言われているものは、市井の人々の中から生まれて磨かれていったものなんですよ。例えば、権力に抑圧される中で、負けないための力だったり、癒しだったり、伝えたり残したりするための知恵が今日まで<芸術>として残っているんです。

音楽のことしかわからないから音楽に例えるけど、バラッドや民謡には時事ネタやその地方の出来事を歌ったニュースの伝聞的な機能があったし、スピリチュアルは奴隷のワークソングとその環境下での暗号として機能した。そういうところから、ヒルビリー〜カントリー、ブルース、フォークなどが生まれていくわけです。

だから、この分野にはアンチ権力的な思考の人が多い。それなのに権力に対して守ってくれ!というのは違和感がある。もっといえば、そんな風にごく普通の人たちの目線で描かれたものを、純粋化して崇高なものとして扱って、<文化・芸術>って言葉を聖なる盾としてお金を引き出そうとしているようにすら見えることに、違和感を感じる。

「愛知トリエンナーレ」の問題があったじゃないですか。あんな反日の芸術(じゃないんだけど)になぜ税金を使うんだ!って。実はあの問題はかなり本質を突いているんです。

あれは、芸術そのものへの支援ではなく、そういう表現活動を行う人たちへの支援なんだと僕は解釈してます。だから基本的にその内容は問われるべきではない(もちろん、ある程度の公衆道徳みたいなものは必要)。なぜなら、日本は表現の自由が保証されているからです。それは犯罪行為ではない限り、その表現によって表現者が公的な制限を受けることはないということです(ただし、愛知トリエンナーレへの政府の対応は、国の制度に反して恣意的に歪められたものだったと思う)。

つまり、支援すべきなのは<文化・芸術>そのものではなく、<文化・芸術の分野>に携わって生活している人たちへの支援なんです。そういう意味では、飲食店への支援と変わらないし、スポーツ業界への支援も必要だろうし、そういったナントカ業界の1つに過ぎない。あくまでも、コロナによって仕事を奪われた、一人の人として生きていくための支援を必要としているんです。

実は、<文化・芸術>そのものに対する支援も国は行なっています。文化庁は芸術的な取り組み自体に補助金を出していますよね。例の立替払いってやつです。トリエンナーレの件も、実質的にはそういった側面も強いです。だから、ここで<芸術>そのものを守れ!ってやっちゃうと、これまで国がやってきた<文化・芸術>そのものに対する支援でいいということになってしまう。今回はそれではダメなんです。

ところで、いわゆる<アート>や<芸術>という言葉に象徴されるような、<純粋な芸術>(ってよくわからんけど)や<伝統的な芸術>には、平時から国の支援金が出たりするけど、<娯楽>に近いというか、<お金儲けができるアート>は<芸術>ではないから支援する必要はない、という感覚はないですか?

ある時からミュージシャンのことを<アーティスト>と呼ぶようになりましたよね。あれはアミューズの創設者である大里洋吉が作り出した、音楽業界をランクアップさせ、売り上げを上げるための宣伝用のマジックワードみたいなもんです。なのに、歌を歌えばそれだけで自分はもうアーティスト、なんて思ってる人、たまにいません? その裏には、アート=崇高なものという勘違いがあるように思います。

でも先に書いたように、多くのアートや芸術はごく普通の人々の目線で作られているし、娯楽に近い音楽=ポピュラーミュージックは実に生々しく人々の生き様を描いている。なのに、こういうときだけそういった普通の人々の感覚を飛び越えた崇高な<アート>なんです!ってチョーシよくね?って思ってしまうんです。そういうところに気持ち悪さを感じる。

だからといって、音楽・演劇・映画などは、好きなことやってんだから仕方ないだろ、とか、不要不急だろ?なんていう意見は見当違いも甚だしい。それならば、食べ物は生きるためのエネルギーになればいいし、服も機能を果たせばいいし、当然のように旅行に行く必要などないということになる。

例えば、すごく美味いラーメン屋は努力と研究を重ねてその味にたどり着いている。それって芸術じゃないですか?表現ですよね?腕のいい建設の職人さんも同じ。その技術の先には芸術的な建物を作り出す能力がある。ITでものすごいコードを書くエンジニアさんもそう。ああいうの、一種のアートじゃないですか?アウトプットの形が違うだけで全部が同じなんですよ。

では、音楽・演劇・映画などの芸術の社会的地位が低いのは何故か。それは、これまで行政を取り込みながら活動してこなかったからです。社会に必要な業界だという認識を作り出してこなかったということです。正式な業界団体を作ってロビー活動をしなきゃダメだ!ってことを僕は今までも何度か書いてきましたが、行政の中での業界への認知度と理解の低さが社会的な地位の低さに繋がっているんです。

別に行政は芸術分野を蔑んでいるわけではありません。ただ、繋がりが少なくて、何をしたらいいのか分からないのです。行政の方から手を差し伸べようにも、その窓口がない。だから、業界団体を作って日常的にロビー活動をする必要があるんです。

これは飲食店の業界も同じで、だから、今回のような非常時には支援が後回しになるし、ライブハウスや飲食店はスケープゴートのような扱いをされた。何かを犠牲にしなくてはならない時、顔が見えない人が選ばれるのは分からんでもないし、なによりも選挙の票に影響しない。業界団体があると団体票として動くし、政府と直接交渉ができるから、無視しづらくなるんです。そういう地道な活動が社会的な居場所を作るんです。

だから、こんなことになってから、<芸術>を盾に、支援しろ!とやることに違和感がある。今こそこの分野で生きる人たちの<生活を守れ!>とやってほしかったし、やるべきだと思う。

おそらく、今回のこの団体も、主旨は上記の通りなはずです。なのに、アピールの仕方がおかしい。掲げるべき看板が違う。もっと泥臭くやってほしいんだよなぁ。我々はただの国民であって、憲法の基本的人権に基づいた最低限の生活を求める!カタいけど、その方が多くの賛同を得られるし、支援の輪も広がると思う。だって、みんな同じ制度の元に生きる国民だからね。

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