新卒でソーシャルビジネスしかやらない会社に入った理由


今年でちょうど30歳になった。いわゆる中堅という感じにもなっているし、毎日が圧倒いう間の社会人生活を送ってきたけど、振り返れば色んな経験があるはず。ということで、初noteとなる今日のテーマは「自分」。自己紹介も含め肩肘貼らずに書き続けてみたいと思う。

今は何を?

社会問題をビジネスで解決する「ソーシャルビジネス」しかやらない会社(株)ボーダレス・ジャパンで採用人事をしている。

社会起業家の数が増えれば増えるほど、解決される社会問題の数も増えていく。
これが僕らが信じているシンプルは方程式だ。
そこで僕は社会起業家(の卵)を採用し育成する採用チームのメンバーとして動いている。(ボーダレス・ジャパンにはスタートアップスタジオ(SUS)という社会起業家(の卵)を集め成功に導くが機能があり採用はその一つ。SUSについてはまた今度。)

もはやここで色んなツッコミ・疑問が噴出する。
「そもそもソーシャルビジネス/ボーダレスに関わり始めたのはいつ?きっかけは??」
「ソーシャルビジネス"しか"やらないって何?」
「ソーシャルビジネスって実際どうなの?」
「社会起業家って普通の起業家とはなんか違うの?」などなど。

一気に書き続けると、もう2度とnoteに戻ってこれないような気がするので(笑)、今日は自分のこと、特にボーダレスに入社する至った経緯について書こうと思う。

ソーシャルビジネスで飯を食う

僕がボーダレス・ジャパンに入社したのは2013年。ボーダレスが新卒採用に力を入れ始めた年だったらしい。
もう語り草だが鈴木さん(副社長)の当時の面接は軽く2・3時間を超えていたし、ホームページが胡散臭かった。いやというかホームページあったっけ?(笑)
とまあこんな感じだった。


大学時代はテニス漬け。高校時代に途中で辞めたテニスをもう一度やり切りたくて朝から晩までテニスする毎日、勉強はそっちのけ。後悔先にたたずとはよくいったものでもう少し勉強しておけよって思うくらい。
社会貢献や国際協力、社会問題に関心をもったのは、所属していた刑事法ゼミと在学中に行ったインドへのバックパックが大きなきっかけだった。

インドへ行ったのは高校時代の親友の影響だった。「インドに行ったら人生が変わる。お前も行ってみたらいいよ。」なぜか力強く響いた言葉を頼りに、大学の友人と一緒にインドへ行った。(彼の話もいつかしたい。笑)
当時はカラーフェスティバル真っ只中。友人は携帯をすられたり笑、僕は僕でカラーフェスティバルで使う粉が鼻の奥に入り、いくらかんでも色とりどりの鼻水が出ていた。その影響でか高熱を出したりと色々あった。笑

今でも鮮明に覚えているのが、圧倒的な人々の熱気・街の賑やかさに、鳴り止まないクラクション。そして影にある貧困だった。少なくとも日本では感じたことのないくらい強い"生"のエネルギーに毎日圧倒され帰宅するとベットに倒れ込む日々。そんな高揚感と同時に物乞いをする少年たちにも出会った。
自分の半分くらいの年齢の人を騙すことに慣れたような少年の目。目の奥が暗かった。なんでこんなにも違うんだろうと自分が本当に恵まれていたこと、生まれる場所が違かったら僕がこの子だったかも知れないと彼の中に"自分"を感じた。
「何かしたい」帰国後に入った国際協力NGOが僕の一歩目だった。

同時期に大学ではゼミが始まった。所属したのは刑事法ゼミ、少年法や裁判員裁判を中心に学んでいた。古くからの犯罪学では、犯罪をする人は脳の形による遺伝だ〜とかという時代から始まり、社会要因や環境要因に至るまで一通り学んだ。少年院にも行かせてもらったいゼミの仲間たちと色んな討論もした。
もちろん犯罪を肯定はできないしが、人が罪を犯すまでに至った個別具体的な背景を知れば知るほど、貧困や家庭環境(DV等)の影を感じこの社会の構造に関するクエスチョンが膨らんでいっていた。

そんな日々を通して自分の軸が固まっていったんだと思う。
就職活動が始まるときにみんなもするであろう自己分析。生まれた時からそれまでの自分の人生をひっくり返して自分は何者で、何をしたいのかを考えた。
行き着いたのが「この人生を、社会問題-貧困や不平等-の解決のために使いたい」だった。もしその先に笑顔が他者と笑い合える人生を送れたら自分の人生は最高なんじゃないかと。
就活を通して自己分析を深くできたのが大きな財産になった。日本の就活のあり方には批判的な声も多いけど、就活関係なく自己分析は自分を知る機会としてとてもおすすめ。いつか自分のやったやり方で良ければ紹介したい。

ちょうど当時は社会貢献や国際協力が流行り始めた時。ソーシャルビジネスなんて言葉はほとんど聞かなかったし、「社会貢献はビジネスにならない」という考えが大勢。他方で、単なる一方的な寄付のあり方にも少しずつクエスチョンが投げ掛けられ始め、自分としても「自走・循環していくような仕組み」を作らないといけないと感じていたので就活の時もそこを模索していた。話は前後するが「社会貢献でメシを食う」の著者米倉さん・竹井さんのトークイベントでそんな生き方があるんだ、という確信にも近い思いが心にもあった。
と言っても世の中一般的には社会貢献はビジネスにならないと言われてた時代。さらに今よりもっと言葉足らずだった自分の説明力。「君がやりたいのは、NPOやNGO、ボランティアかなんかなの?」そう問われうまくいかない面接が多くなっていった。
やっぱり自分の考えが甘いんだろうか?おそらくわらにもすがる思いで「社会問題 解決 ビジネス」と検索した画面で出てきたのがボーダレス・ジャパンだった。鈴木さんとの面接のやりとりも色々書きたいんだけど長くなりすぎるので今回は割愛。

でも面接の中で一つ明確になった事があった。
「今やらないというのが自分の中での先延ばし・逃げの選択肢」だったという事。
当時語っていた「実力をつけるために就職し、自信をつけてやります」という言葉。その自信や実力は5年、10年どこかの企業で働いたとして身に付くものなんだろうか?そうやって「先延ばしにする時間をインドで見たような子どもたちは、世界は待ってくれるのか?」そう問い直された時自信を持って「YES」と言えない自分がいた。やらない理由を作っていた自分に気がついた。
そしてもう一つ。この人たちとだったら僕は逃げずに挑む事ができると感じた面接でもあった。僕がボーダレス・ジャパンに入社を決めたのはこれが全て。

あれから8年、ミャンマーの貧困農家さんに雇用を作る事業でwebマーケや商品開発をしたり、アパレルブランドの立ち上げで店舗統括をしたり、トルコで新規事業の立ち上げをしたり、起業家の伴走をしたり、いろんなことをさせてもらってきた。(ここら辺の話も追々書きたいなと思います。)

その中で一つの結論にたどり着いた。
それは「事業を立ち上げる力・起業の力は、起業の中(0→1)を作る過程でした育まれない」という事。
だったらかつて自分がそうだったように「志ある人が、迷いなく走れて理想を実現できる最短経路の場所」を作れる何かプログラムを作れないだろうか?
実はその思いから今採用人事として、新卒・社会起業家育成プログラムRISEを作った。新卒入社した子三人一組に1,000万円を渡すというなかなかぶっ飛んだ企画なので良かったら見てみてください。

最後は宣伝っぽくなってしまいましたが、どんなことを考えていてソーシャルビジネスにたどり着いたか、ボーダレス・ジャパンに入社を決めたのか少しは書けたのではないかなと思います!
採用人事としては、まだスタートを切ったばかり。これから引き続き新しい仕掛け・トライもしていきますし、今までやってきたことも書いていきたいと思います。
お読みいただきありがとうございました。


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