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Etude (24)「科学は、テレビ塔の天辺から落ちる紙の行方を知ることはできない」

[執筆日: 令和3年4月2日]

 アフリカで活躍する同期から、同期で3月定年退職した人、或いは、4月から続けて勤務する人の話しや、公務員の65歳定年延長法案の話しなどを聞いて、日本人は、西欧人とは違う労働観、人生観を持っているんだなあと。西欧人には、働くことへの罪悪感のようなものがあるようで、イスラム教徒もしかり。日本人は、働くことを美徳として、死ぬまで働くこと、つまり、社会的承認を得ないと生きていけない、そんな民族なのかなあと。しかし、どこか淋しいですよね。人生の大半が全て社会的な意味合いしかない、そんな人生、本当にそれでいいのだろうか。人生の価値を全て働くことに見出す人生、他人の眼を気にしながら生きなければいけない人生、働く人の方が働かない人よりも「幸せ」と思う人生、私にはどうも、違和感があります。もちろん、働かないと生きていけないという経済的理由は十二分に理解はしておりますが、でも、どうして、西欧人のように、仕事における労働者としての自分と、個人としての自分を分けた生き方をして、そして出来るだけ早く仕事から引退して、真に自分らしい、個性的な時間を過ごして、あの世に旅立つような社会(国家)にならないのか、そこが私の論理的、科学的な思考では分からないのであります。結局、日本社会では、個人として生きることが難しいということに、帰結してしまいますが。

 ところで、フランスのル・モンド紙の3月6日付の記事に、英国の首相で、ノーベル文学賞まで受賞したウイストン・チャーチルのことが書かれた記事があり、ちょっと引き込まれました。
 英国の獅子と呼ばれたチャーチルは、1953年にノーベル文学賞を受賞しますが、第二次世界時、1940年に首相になり、対独戦争を勝ち抜く英雄的政治家ですが、1943年に、彼はルーズベルト米国大統領、そしてフランスのド・ゴール将軍との会見場所であるモロッコのマラケシュで、絵を描きながら、時間を過ごしていたようで、その時に描いた絵が「La Tour de la Mosquee Koutoubia」(「クトゥビア・モスクの塔」)と題する絵。この絵は、戦時中にチャーチルが描いた唯一の絵ということもあり、ロンドンのオクションで、9百50万ユーロ(12億円強か)で競売されたようです。この絵の値段は、同時期にニューヨークで開催されたオクションに出されていたゴッホの珍しいデサン(素描)画の競売価格8百60万ユーロよりも高かったのです。
 チャーチルは、もともと絵に趣味以上に深く関わっていたようで、他の作品も百万、或いは2百万ユーロを超えるようで、英国を代表する画家でもありますが、天は二物を与えずと言いながら、ちゃんと与えられている人もいるわけです。
 絵画の芸術的評価と値段が一致するかどうかは、昔からのテーマですが、チャーチルは毀誉褒貶というか、人格的に素晴らしい面と駄目な面、長所と短所が入り混じった複雑な人物で、政治家であり、文豪であり、そして画家という、複数のペルソナを持ちます。複数のペルソナを持つのは、西欧の伝統的な個人の有り様ですが、日本では、あまり評価されません。公務員、外交官でもそうで、物書きはマイナス評価になるようであります。
 なお、チャーチルの生きた時代は、勧善懲悪的というか、善と悪の線引がはっきりした世界でありましたので、その評価が変わる時代になると、チャーチルは人種差別主義者というレッテルをつけられたこともあり、そういう観点からは彼の絵の評価は、時代によって、変化するということなのかもしれません。しかしながら、見たことはありませんが、彼の絵には、画家に必要とされる絵を描くための科学的な技術が間違いなく認められるのではないかと思います。なお、この絵の前所有者は、アンジェリーナ・ジョリーだったようです(絵は最初にルーズベルに贈与され、その後色々な人の手に渡り、最後にはブラッド・ピットからジョリーへと移ったようです)。

 先日から、普段の生活ではあまり意識はしない、科学というものを考えておりましたが、科学と芸術はお互いに両端に存在するようなものかもしれませんが、技術的な面では、科学は文化的なもの、例えばスポーツの世界にも多く貢献しているように思えます。マラソンランナーの使用するシューズは典型的な例かもしれません、厚底になって、タイムが飛躍的に向上しています。ゴルフの世界もしかりで、16世紀前後の黎明期から令和の時代のゴルフでは、クラブもボールも雲泥の差というか、月とすっぽん程に違いがあるでしょう。
 クラブは可能な限りボールを簡単に、かつ遠くに飛ばせるように技術進歩し、ボールもボールで飛んで、かつ耐久性に優れているボールに。皆これは、ボールが真っ直ぐ、直線的に飛ぶ力が技術的に向上しているためで、ここに科学の貢献があります。ただし、科学的精神の人間学への応用という意味では、まだまだの未開のようで、これが難しいところであります。科学も人間が考えることですし、ゴルフもある意味では、人間学の世界。ゴルフは完全に科学的にできないようなのです。例えば、仮に真に科学的であれば、科学は精度を重視します(誤差を可能な限り少なくする)。400ヤードのミドルホール(パー4)を例にとりますが、科学者的ゴルファーは2タイプあります。Aタイプは、ともかくも飛距離を最大限にし、可能な限り、2打でグリーンに載せて、バーディか、パーであがる。王道といえば、王道。科学技術を最大限に活用するゴルフです。Bタイプは、400÷2=200ですから、200ヤードを二回、正確に打てるクラブを選択し、無理のない、精度の高いゴルフをするタイプ。結果は悪くてもパーという感じのゴルフ。これがプロとか、シングルといわれるレベルのゴルファーですが、私のようなレベルの場合はCタイプとしましょう。Cタイプは400÷3=133で、大雑把に、150を基準にして、1打目、2打目、3打目をプラス、マイナス的に距離を換算して、3打でグリーンに載せるゴルフ(所謂ボギーオンゴルフ)。良くてパー、悪くてダボ的ゴルフです。仮にロングホール、520ヤードのパー5では、520÷4=130となり、ショートホールの150ヤードのパー3は、1回で済みます(仮想的)。ですから、基本となる数字は大体150で、この距離を如何にして精度を高めて打てるようになるかが、Cタイプの科学的ゴルフということになります。
 科学が精度の問題、再現性の可能性のあることを学ぶ学問であるとすれば、ゴルフで上達するには、使用するクラブの精度をあげる→信頼度をあげる→スコアーを上げる、という正の循環を生み出すのが科学的ということなので、杢兵衛的には、今も科学的なゴルフをしていると思いますが、先日一緒に回ったシングルの方に、そんないつもパーオンゴルフ、つまらないようにも思えるけど、愉しいですか、と聞いたら、それは愉しいけれども、、、という答えは返っては来ましたが。ゴルフが人間学であるというのは、人間性が出るということで、それは愉しいという感情の違いにも出るのかなあと思います。私は、ゴルフで一番愉しいのは、アプローチとパターで、特にパターは大好きですね。物理的な、数学的(算数か)な考え方と、勘という、科学的ではない摩訶不思議な能力の両方が試されるのが、アプローチとパターで、私がゴルフを辞められないのは、この愉しみがあるからなんでしょう。
 そんな科学とゴルフ、あるいは、科学と芸術のことなども考えながら、今日は中谷宇吉郎さんの「科学の方法」を読みながらエチュードをしてみました。なお、先日のアガサ・クリスティに関してのエチュード(22)「さあ、あなたの暮らしぶりを話して」で、シリアのローマ時代の遺跡名をパルミアpalmyiaと表記しておりましたが、これはパルミラpalmyraですので、訂正致しておきます。失礼いたしました。

 「枝振りの特異さとか、茶碗の曲線の味というものは、科学の対象はならないもののようである。厳密にいえば、科学的な方法で、その本態を捉えようという試みは、不可能ではないが、利口な方法ではない。その点だけは確かである。もっとも科学的方法、すなわち分析と綜合とによってある結果が得られれば、それは一般性があるので、次ぎの進歩に役立つ。今日科学がこのように発達したのは、この特徴を巧く活かしたからである。しかしそれが人間の幸福にほんとうに寄与したか否かは、また別の問題である。
 枝振りをただ見て、その全体としての特徴を感じただけでは学問にはならない。しかしそれが人生に全然役に立たないとはいわれない。少し奇矯な例ではあるが、山奥で道に迷った時、ある木を見て、これは人工の加わった枝振りだと知って、その方向に歩いて助かったとする。学問にはならなくても助かる方がよい。これはいささかこじつけの議論ではあるが、この中になんらかの真理はありそうである。枝振りの鑑賞や、茶碗の味を愛惜する心は、科学には無縁の話としておいた方がよいように思われる。あまり役には立たないが、そのかわり害もない。茶道などが、今日の科学文明の世になっても依然として生命があるのは、科学とは無縁であるからである。そのうちに科学的茶道などというものが生まれてくるかもしれないが、そんなものはすぐ消えてしまうべき運命のものである。茶道は、科学などに超然としておれば永久の生命があるであろう。」
         中谷宇吉郎「科学の方法」の「附録 茶碗の曲線」から

 数学で、プラス✕プラスはプラス、プラス✕マイナスはマイナス、マイナス✕マイナスがプラスになる理由を昔習った気がしておりましたが、忘れていたのでしょうが、今回、中谷さんの「科学の方法」を読んで、ふむふむと理解しました。一般に、プラスとマイナスはある基準点、通常はゼロ(0)ですが、そのゼロから多い方(あるいは大きい方)がプラス、少ない方(小さい方)がマイナスと理解していますが、定規、ないしは温度計で基準点がゼロになっているものを見すぎているせいか、長さ(距離)=大きさ(質量)と勘違いしている傾向があります。プラス、マイナスを長さや質量ではなく、電気の「力」として考えると分かりが早い訳ですね。電気では、プラス✕プラス、マイナス✕マイナスも、電気は同性の関係になるので反撥力(つまりプラス)となり、プラス✕マイナスは異性の関係になるので吸引力(つまりマイナス)となります。
 数学では、マイナス✕マイナスがプラスになると決めたわけですが、科学は、科学が扱う対象を考える上でのルールを設定し、そのルールで判断できることをベースにあくまでも、科学が扱える課題を考えて行く学問ということのようです。

 中谷さんは、「科学の方法」において、科学の限界、科学の本質、測定の精度、質量とエネルギー、解ける問題と解けない問題、物質の科学と生命の科学、科学と数学、定性的と定量的、実験、理論、科学における人間的要素、そして結びという構成で、科学の方法を展開しております。私的には、中谷さんが一番いいたかったのではないかと思ったのは、「附録茶碗の曲線」ではないかと思っておりまして、敢えて、冒頭にその中の文章をご案内しました次第です。
 中谷さんの弟さんは、東大で考古学を専攻され、土器の研究をしていて、土器の曲線、彎曲率を数学的に表現できないかと考えていたようですが、結論が出ないままパリへ研究留学したものの、そのパリで病気に罹り、帰国後間もなく亡くなってしまい、彎曲率を数式によって数値化するという研究は日の目を見るで終わったようです。そうした弟さんの姿を中谷さんは、「精神文化の一表現である土器の姿を数式で表そうとした、大胆不敵な、実現不可能なことをした」と述べているわけですが、不可能に挑戦する姿は感動的でもありますし、文化を存続させるには、科学からは距離を取った方が良さそうであります。
 中谷さん自身、「解けない問題と解ける問題」の章で、「(人工衛星を打ち上げるための技術的困難を克服し)火星に行く日が来ても、テレビ塔の天辺から落ちる紙の行方を知ることはできないところに、科学の偉大さと、その限界がある」と述べております。科学というのは、科学という学問の世界において信頼性のある真理を見つける学問ということかと思いますが、決して万能なものではないようです。
 中谷さんの本にある言葉の中から、示唆に富むなあと思った言葉を幾つかご参考までに記して、失礼致します。

「先ず第一に、一番重要な点をあげれば、科学は再現の可能な問題、英語でリプロデューシブルといわれている問題が、その対象となっている。もう一度くりかえして、やってみることができるという、そういう問題についてのみ、科学は成り立つものである。」
「ある知識を得る。その得た知識と、ほかの人がその人の感覚を通じて得た知識との間に矛盾がない場合には、われわれはそれをほんとうであるという。そうでない場合には、まちがっているというわけである。」(下線部は私が入れたもの)
「自然現象を数値であらわして、数学を使って知識を綜合していく。これが科学の一つの特徴である。」
「自然現象を数値であらわして、その数値について、知識を深めていく。これが科学の基礎となっている方法である。」
「再現可能と信用できるということが、再現可能な問題なのである。科学の世界にも、信用という言葉があるが、これは道徳の方でいう信用とはちがう。お互いに知識に矛盾が無いという意味である。要するに、同じことをくりかえせば、同じ結果が出るという確信がもてることが、再現可能という意味である。」

「広い意味でいえば、科学は統計の学問ともいえるのである。科学が統計の学問であるとすると、すべての法則には、例外がある。そして科学が進歩するということは、この例外の範囲をできるだけ縮めていくことである。多数の例について全般的に見る場合には、科学は非常に強力なものである。」
「科学というものには、本来限界があって、広い意味での再現可能の現象を、自然界から抜き出して、それを統計的に究明していく、そういう性質の学問なのである。」
(「科学の限界」)
「因果律というと、何か原因があって、それと直結して結果があるというふうにとられ易いが、けっきょくのところ、原因とか、あるいは結果というものはないのである。ただ、人間が、ある現象のつらなりを、原因結果的に見て、順序を立てるということにすぎないのである。」
科学が自然に対する認識をつくることと、芸術家が美術品を作る場合と、どこがちがうかというと、その間には、はっきりした区別がある。それは作ったものを評価する場合の物差しがちがうのである。科学の場合の評価は、ほんとうであるか、そうではないか、ということを測る物差しである。それではほんとうであるか、ちがっているかということを測る物差し自身は何かというと、それはそのときまでに得られている科学の知識の集積である。」
(「科学の本質」)
「測定には必ず誤差がともなっているので、いかなる方法を用いても、われわれは自然のほんとうの値を知ることはできない。測定によって得られる結果は、常に近似値的の価である。科学で「永久」は、数百年乃至数千年のことである。というのは、精度が有効数字6桁というのが、ほぼ限界であって、それ以上は無理と感ぜられるからである。」
(有効数字とは、Aという数字をBという数字で割った場合、0.34と出ると、有効数字は2桁、0.00823の場合は3桁という。地球を描く場合、円ではなく、楕円形であるが、精度としてどこの桁までの数字に意味があるかを示すもの、というようなものか)
(「測定の精度」)
「物質はものであって、ある実質のあるものである。ところがエネルギーは、力のようなもので、これはものではない。ものとものでないものが、互いに移りかわれるというのであるから、このままでは理解されにくい。いかにも不思議な話であるが、ほんとうは何も不思議なことではなく、物質と普通いわれているものも、またエネルギーといわれている力みた(いな)ようなものではないものも、本来自然界の実態ではなく、人間の頭の中でつくられた概念である。」
(注)ものをものとして感ずるのは形が見えて、触ったりして手に触れるから解るのであるが、目にみえない、触れないものでも物資としてはある(水蒸気、月も)
「要約すると、物質には色や形や硬さとは無関係に、質量と生ずべきものがあって、それは天秤に、目方として現れる。別の表現では、目方のあるものが、物質なのである。これははっきりした定義があって、例えば、幽霊が物質すなわちものであるか否かは、幽霊に目方があるか否かできまる。」
(「質量とエネルギー」)
「自然のほんとうの姿は、永久に分からないものであり、自然界を支配している法則も、そういう外界のどこかに隠れていて、それを人間が掘り当てるというような性質のものではない、という立場をとれば、これがほんとうの自然の姿なのである。自然現象は非常に複雑なものであるから、人間の力でその全体をつかむことはできない。ただ、その複雑なものの中から、科学の思考形式にかなった面を抜き出したものが、法則である。」
「同じ結果が出なかったら、原因はほかにあるだろうとして、更に調べていくわけである。これはすなわち科学の見方である。もっとも別の見方もある。ほんとうの現象は、どんどん変化していって、二度と同じことは繰り返されないといういう見方もできる。これは歴史の見方である。現象を歴史的に見るか、科学的に見るかという根本のちがいは、ここにあるように思われる。」
(「解ける問題と解けない問題」)

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