モンターニュの折々の言葉 359「人生を生き抜くための技とは」 [令和5年4月7日]

「わかりやすくて、巧妙な比喩、そしてごく卑近な親しみ深い話題からはじめて、しだいに問題を抽象化して行き、ついに人生の要諦といっていい結論を導きだします。随所に抽象名詞が配され、名詞構文が思想の中心点を明確に組み上げます。こういうフランス語が本当に吟味できるようになれば、ことばは自分の思想を表現するということの真に人間的な意味を、そしてその喜びをわたしたちも感じとれるはずです。フランス語の勉強をここまで進めていきたいものです。もっとも、そのコトもまた、『技術と注意力と忍耐を必要とするわざ』であることにはちがいないのでしょうが。」

田辺保「フランス語の新しい学び方」(講談社現代新書、後に改題「フランス語をどう学ぶか」(講談社学術文庫))

 今日は、風が物凄く強い。風当たりが強いよりは、まだましですが、花粉症のせいか、鼻水が止まりません。マスクは当面は手放せませんが、予定していた六本木での昼食は、諸般の事情で延期になりましたが、私の「折々の言葉」の購読料の代わりにと招待されている、池袋にある蕎麦屋さんでの夕食は予定通りに行われる予定。奇特な方のお陰で、バイトの収入のない4月ではありますが、御神籤の「大吉」の御利益は、まだ続いております。

 他方、私の関与しない、知らない世界の話では、森鴎外の「最後の一句」に出てくる、父を思う娘の言葉ではありませんが、江戸時代の「お上がすることに間違いはない」という言葉が、令和の時代でも生き続けているような感じであります。社会脳に洗脳されている人は、どうしても名刺にある肩書に弱くなります(名刺花粉症か)。お役人天国の日本というのは、社会脳が支配する世界でありますが、なかなか変わる萌しが見えてきません。

 こうした話は、損得勘定が先にあって、生臭くてどうもいけませんので、もっと、爽やかというか、清々しい感じのする話を致しましょう。

 冒頭の言葉は、小島直記(本名小嶋直記、1919-2008、福岡県八女郡出身)「一燈を提げた男たち」(平成14年)の中の一節ですが、田辺保さんという方(1930-2008)は、フランス文学者・翻訳者で、大阪市立大学名誉教授、岡山大学名誉教授でした。フランスから勲章も授与している方で、私は、「フランス語はどんな言葉か」(講談社学術文庫)を、何故か持っております。私が購入したのは、発行が2002年第8刷ですが、1969年至誠堂新書として公刊されたものが、講談社学術文庫から再刊された本です。フランス語の本で、第8刷というのは凄いとだと思いますが、確かに内容も充実していて、フランス語を習ったことない人でも、十分読んで楽しめる本だと思います。

 フランス語の本ということで言えば、松原秀一(1930-2014、慶應義塾大学名誉教授、専門は中世文献学。フランス政府からレジオンドヌール勲章を授与。)「フランスことば事典」(講談社学術文庫)も読んで楽しい、面白い本です。松原先生にはパリで直接お会いしたことがありますし、三田会の集まりで再会しておりますので、多少「よいしょ」もありますが、彼の父親は外交官で言語学者であった松原秀治(1902-1984)。慶應義塾大学から外務省に入り、執務の傍ら、フランス語の冠詞の研究を続け、外交官としてはコンゴ代理大使を務めた後退官し、言語学者として活躍(白百合大学教授)した人。

 大分脱線してしまいましたが、小島直記さんの本では、私は、「出世を急がぬ男たち」(昭和59年)、「逆境を愛する男たち」(昭和62年)、「スキな人キライな奴」(平成6年)、「老いに挫けぬ男たち」(平成8年)、そして「人間・出会いの研究」(平成9年)を持っておりますが、最初に読んだのが、「一燈を提げた男たち」。この本を読んで、それまでの読書経験にはない、まさに痺れるような感動に出会って、他の本も読んだのですが、その後の私の読書傾向を決定づけたのが小島直記さんの書かれた一連の本であったといっても過言ではないでしょう。

 日本の読み物では、純文学的な小説よりも、事実に基づいた歴史小説の方が大好きで、特に伝記小説は大好きでありますから、小島直記さんの本に出てくる歴史的な人物、乃至は、世には知られてはいないけれども実在した人物の物語は、大好物。大福餅か、笹巻きの餅。頭で弄り回した抽象論的な文章よりも、現実的な文章の方が好きということかもしれません。ただ、女性が読んで面白いかどうかはわかりませんが、人生になんとなく、物足りなさを日頃感じている男には打って付けの本であります。

 私が読んだのもそんな時期で、後から振り返ると、外務省38年間の勤務の折り返しの時期頃から、働くモンターニュ(社会脳的存在)から、思考するモンターニュ(非社会脳的存在)に「転向」したかのような時期にこの読書が符号するかもしれません。福沢諭吉の言う、人生を2回生きるとは違いますが、社会脳的な生き方から、非社会脳的な生き方を模索し始めていたのかもしれません。

 そう言えば、今日の「天声人語」に、名刺で勝負するなという、警句を入社時に先輩から頂戴した逸話が出ておりましたが、これはいい話。良い話で、善い話ですな。私は役所を退職後、名刺を持たない生活を3年しておりますが、名無しの権兵衛というか、名無しの杢兵衛であり、名無しのモンターニュということなんでしょう。

 この場合、「名」とは肩書ということでしょうが、公の席で私が仮に紹介されると、  「元外交官」か、「元外務省員」、あるいは、都内で小中学校の生徒に補習授業をして  いるフリーランスの講師か。名刺にある名であり、肩書というのは、何で生計を立てて  いるかを示すのが日本の名刺の意味なんでしょう。しかしながら、バイトという仕事で  は、名刺にそのバイトの職務を書いてもたいしたこともない、つまりは箔が付かないと  いうこと。名刺は、受け取る相手が、「おっ!、これは」と思わせるような、驚くよう  な肩書の名刺がいい。「マレビト研究家」とか、巷であまり知る人がいないような、レ  アなことに惑溺していることを示すような名刺の肩書が。

 以前、私が大変お世話になった外務省の大先輩から頂いた名刺には、名前と住所と連  絡先としての電話・メールアドレスだけしか書いてありませんでしたが、これはこれで  爽やかさが感じられて良いなあと思いました。欲が微塵も感じられないというか。実は  、今年予定されている講演のネタを時々思案しているのですが、新年度、新学期にもな  って、職場なり、学びの場所が変わった人もいるだろうと思いながら、アイデンティテ  ィーのことを考えていました。

 働く場所があり、学びの場所があり、そして、社交的活動の場を持っている人なら、  アイデンティティーは色々あるだろうなあと。他方、退職して、年金ぐらしの高齢者の  アイデンティティーとは何なんだろうかと。そもそもあるのかないのかと。

 今日のまとめです。人生は、アイデンティティー探しの旅でもあるとも言えるでしょうが、66年生きてきて、少なくとも一つだけ分かったことがあります。それは、自分が分かっていることよりも、分かっていないことの方が遥かに多いということ。つまり、自分の知る世界と知らない世界というのは、まるで、地球と宇宙のような関係であるということです。知っている世界と、知らない世界があることが分かっただけでもですね、自分自身のアイデンティティーは無限であるということに気づく訳です。アイデンティティーを可能性という言葉に置き換えても良いでしょう。

 確か、哲学者の田中美知太郎も似たようなことを述べていましたが、久保田保さんがフランス語の習得について述べているように、私たちの仕事であれ、趣味であれ、また人生における生き方であれ、すべからく「技術と注意力と忍耐を必要」ではないだろうかと思うのであります。これは、ゴルフをする人にとっては、浄土真宗の「南無阿弥陀仏」的に有り難い言葉。

 「一芸に秀でるものは、云々」ではありませんが、上達のために求められるものには共通性があって、それは技術力、注意力、忍耐力ということで、それぞれの力を如何にして習得するかを教えてくれて、そして、そのような力をどの方面で発揮できるかをその人に合ったように諭してくれる人こそが先生であり、師と呼べるのではないのかなあと。そうしたことが分かる日が来るかはわかりませんが、モンターニュは名刺なしの存在として、しばらくはアイデンティティー探しとも言えるし、『失われた時を求めて』的に、「折々の言葉」を綴る日々になるのでしょう。

 なお、冒頭に引用した久保田さんが感嘆したアンドレ・モーロワのフランス語の文章(日本語訳)は末尾の通りです。よくこの二人の名前を間違えるのですが、政治家で小説家だったのが、アンドレ・マルロー(Andre Malraux 1901-1976)で、カンボジアの「東洋のビーナス」を盗んだ経歴のある人物。他方、モーロア(Andre Maurois1885-1967ユダヤ系フランス人)は、世界的な伝記作家で、河盛好蔵の「エスプリとユーモア」でも紹介されている、フランス的エスプリの具現者のような優れた文学者。マルローとモーロアのどっちの作品が好きかで、その人が社会脳派か、非社会脳派かがわかるような気もしますが)。

 どうも失礼しました。

「あまり多くのたき木を放り込まないこと。それは愛においてもいえます。すぐに熱烈な情熱の炎を燃えあがらせたいと望んで結婚するなら、せっかくの愛の火を消してしまう危険は大きいのです。もちろん、結婚する前から大きな情熱の火が燃えていたのなら、あとはその火を守り育てて行くだけでよいのです。しかし、あなたの結婚がお互いの友情や尊敬心にもとずくものであるときは、小さなたき木をつぎこみなさい。心づかいの数々、晴れやかな心、共通の趣味などの小さなたき木を。その結果、きれいな明るい炎が音をたてて燃え始めたら、もう何もおそれることはありません。そのときは、情熱の大きいたき木を放り込んでも、もう炉の火を消すことはありません。日を燃やすということは、だん炉で、愛の場合でも、使命と感じる職業の場合でも、技術と注意力と忍耐を必要とするわざなのです。」

アンドレ・モーロワ「青年に贈る人生の書」


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