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Etude (27)「人間とは心である」

[執筆日 : 令和3年4月6日] .

 鈴木大拙の「禅の思想」は、登山家にとっても難所的北アルプスの巨峰であり、登山家でもない杢兵衛は、ここらで下山するのが賢明であるという結論に達しました。そうはいっても、多少の痕跡は残さないといけませんので、「解題」を書かれている小川隆さんが述べたことを要約しますと、「(大拙が)自らが「会心作」と述べた「禅の思想」は1943年、73歳の著で、その5年前には、英文で書かれた「禅と日本文化」があり、「日本的霊性」は74歳の著。彼は、70代半ばから90代半ばまでの20年間を「老躯に鞭打ちながら世界に向かって「大悲」を説きつづけることを自らの使命として生きた人」であり、「禅は単に無知の知、無分別の分別にとどまらない。無分別の分別は現代社会に対しても有効であり、現代社会は分別によって運営されてはいるが、その分別をよりよく機能させるのが無分別の分別で、そして原理となる。従って、禅を修める者には、知識・思想・反省が必要」ということであります。
 またいつか、再挑戦することもあるかもしれませんが、今回、禅を少し勉強して、どうしても少しまとめておこうと思った、記録に残したいと思ったのは、人間の「心の構造」です。意識構造とも言えるし、脳科学から見れば、脳の働きを科学的に知ることにもなりますが、「人間というものは、心の存在」ではないかということです。禅は思想であり、そして仏教から導かれたものでありますから、宗教でもありますが、「禅とは、人間の心を知るための思想であり、技術的にみると、心をマネージメントするためのもの」のように思えます。宗教は何のために必要であるかを思索すると、畢竟、心の安寧のためで、その心がどういうものが分からない限りは、永遠に人間もわからず、真の幸福も得られない、そんな気がいたします。そんな心を仏教はどう認識しているかを、以下のようにエチュードしてみました。

 仏教では、一般に心を6つの種類に分けるようです。眼識、耳識、鼻識、舌識、身識という身体の5つの器官で感じる五感、これを五惧(ごく)の意識というそうですが、そして6番目に、意識があります。
 この意識は、独頭(どくず)の意識といって、3つの意識があり、(1)夢中意識、(2)独散意識、(3)定中意識ですが、順に、睡眠中に起こる心の動き、記憶の再現・想像・かつて見聞したことなど意識の下に潜在しているものが出てくる心の動き、そして禅定の時などで意識が統一された時に出てくる心の動き、になるということです。
 奈良にある薬師寺は法相宗の大本山で、清水寺も北法相宗の本山ですが、法相宗は、玄奘三蔵法師がインドから中国に伝えた「成唯識論」という書物によって開かれた宗派。法相宗は、別名を唯識宗ともいわれます。すべての現象を意識活動からとらえる宗派で、根本識として、「阿頼耶識(あややしき)」をたてます。
 小乗仏教では、上記の6つの識だけですが、法相宗では、意識の下に、「末那識(まなしき)」と「阿頼耶識」を追加しています。「末那識」は我執の根本で、執着を特質とする、凡夫の心の底で濁っている、汚れたものが第7識にあたる「末那識」です。第八識には「阿頼耶識」があります。これは、過去から現在までに至る全ての経験を蓄えた蔵です。自分だけではなく、親、先祖のおかしたすべての経験の貯蔵の蔵で、無限の過去と無限の未来に連続してものと言われます。
 「末那識」「阿頼耶識」は、無始(世界の始まり)以来不断に活動している自我の根源で、迷界の根本でもあるとされていて、修行によってその醜い心を掘り下げてゆくと、清冽な泉に到達すると言われます(これを「大円鏡智」と言いますが、これが第九の識になります)。
 人の心を完全に知るのは、とても大変ですが、この清冽なる泉(第九識)にたどり着けるかどうかは、修行次第、禅では座禅次第ということかもしれません。(以上、鎌田茂雄さんの「禅とはなにか」の第二章 禅の精神を参照)

 なお、井筒俊彦先生は、「意識と本質」で、図を使って、言語との関連で人の意識構造を説明しています。一番上にあるのが表層意識、その下には深層意識があるとして、順番に、(1)「想像的」イメージの領域、(2)「阿頼耶識」、(3)最後の下層部分に、無意識の領域、そして、(4)意識のゼロ・ポイントが最下位にある構造となっています。

 ところで、世界的な数学者であった岡潔(1901-1978)さんには、名著とされるエッセイ的随筆が多くありますが、以前徒然でもご案内した、「数学する人生」(森田真生編、新潮文庫)に、「人の悲しみがわかるというところで留まって活動しておれば理性の世界だが、人が悲しんでいる道をどんどん先へ進むと宗教の世界に入ってしまう。いいかえれば、人の人たる道をどんどん踏み込んでゆけば宗教に到達せざるをえないということだろう」という言葉があります。
 鈴木大拙はそうでしょうし、西田幾多郎もそうした哲学者ではなかったのかと思います。岡さんは、「秋深し隣は何をする人ぞ」「山吹や笠にすべき枝のなり」といった俳句を引用しながら、「芭蕉は真我の人で、真我の人にとっては自然も人の世もすべて自分の心の中にあるとして、仏教の心の層を、一番底を第九識という、ここは総ての人に共通するもので、その上の第八識は、その人の過去一切が蔵されている、外界はこの第八識の表れで、それに依存しているのが第7識で、その表れが小我、普通人は、自分のからだ、感情、意欲を自分と思っているが、これが小我、そして第八識とは、「阿頼耶識」である」としています。
 なお、岡さんの「夜雨の声」(山折哲雄編、角川ソフィア文庫)に収録されている「愛国」という文章(「成人の書」1965年)は、日本人が真我的人間をたたえる国であるとして、その国を愛する意味を語っておりますが、これからも、是非とも後世に読み継がれていってもらいたい、素晴らしい文章だと思います。勿論、「春宵十話」(光文社文庫)も大変な名著ですし、先般ご案内した「科学の方法」の著者、中谷宇吉郎さんに対しての弔事的文章も収録されております。

 脳学者であった、時実利彦(1909-1973)さんには、名著「脳の話」「人間であること」(岩波新書)がありますが、「人間であること」に引用されている、岡潔さんの言葉、そして、トインビーの言葉は以前ご案内しましたが、彼は脳科学者の立場から、唯識論に言及しながら、「六識は、言わば新皮質のハードウェアーであり、末那識はソフトウェアであるといえよう、快楽を追い、権力を求める人間を、生存の意味を探る私たちに止揚するためにも、ホモ・サピエンスとして、非合理性によって人類を破滅におとしいれないようにするために、刻々と流れでる生命の源泉である阿頼耶識に沈殿している自分の発見に努めようではないか」と、述べております。
 なお、今日は、以前作成した「心の構造」をご参考に以下添付いたしますが、心を図式化することは若干無理はありますが、しかしながら、相互に理解し合うためには、言語は避けて通れません。私のエチュードは、言わば、私の体験、そして経験を他者と共有するために言語と悪銭苦闘の格闘している、そんな徒然なのかもしれません。失礼いたしました。

二木

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