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モンターニュのつぶやき「何故ラ・ロシュフコーの『箴言』は読み続けられ るのか」 [令和3年5月9日]

[執筆日 : 令和3年5月9日]

 昨日、先日一緒にゴルフをしたゴルフ友から、「アイアンを買い替えたいので、買い物にお付き合い願えませんか」と依頼があって、それではということで、馴染みの都内の中古品を扱うゴルフショップへ。
 実は、彼のアイアンは大分古いタイプのもので、私の目には、化石化したアイアンで、グリーン周りのミスが多いのは、多分、ショートアイアンが合っていないせいではないかと思って、購入を勧めたのでした。
 殿方の買い物は、大体が大雑把になりがちで、私もそうですが、買おうとする商品への明確なイメージをもっていない場合が多いのですが、しかし、友人のためとなると、そこは多少の配慮もしないといけませんので、それなりに気は使います。買い物もある面、その人の性格や嗜好性を顕しますし、他人と買い物をするのは、まあ、風呂場で裸の付き合いをしていないと出来ないのではないかと思います、恥部が見えても気にならない関係といいますか。
 これから10年ほどゴルフライフをエンジョイするとしても、体力的な衰えもあるでしょうし、クラブの機能性は勿論ですが、飽きの来ないフェイスをしていて、安定的なショットを打てる、軽めのクラブを対象にして、日本のメーカー、外国のメーカーなどを比較しながらも、5番アイアイへの拘りがあるので、5番アイアンも入ったセットを幾つか見て、お値段とも相談しながら購入したのでした。日本製は比較的お高いですね。型の古いのは値が下がりやすいのもクラブの傾向ですが、名器は古くてもそこそこのお値段のようで、色々と勉強になりました。結局、私が先週購入したメーカーであれば、大きな間違いはないという観点から、別モデル(私のは2007年モデルで、彼のは2018年モデル)を購入してもらいました(値段は私のセットの2倍以上)。私とは違い、彼には未だ働いて得る収入源がありますので、そのくらいは痛くも痒くもないかと思います。
 私のクラブ選択の基準は、基本的に顔は美形で、それと全体の重さのバランスですな。飽きが来ないのが良いので、フェイスとソールの部分がポイントになりますが、巧く彼に合っていることを祈るしかありません。他人の買い物にお付き合いすることに限らず、人は、誰かの役に立っていると思うと、そこそこ満足した日々を過ごせるように思いますが、そうした他人とのお付き合いで、肝心なのは、礼儀作法という交際術なのかもしれません。

 大学時代、特に、1年、2年は専門の経済学の本を読むよりも、文学作品を読む時間が長かったのですが、そうした本の一つにラ・ロシュフコー(1613-1680)の「箴言」がありました。当時は私も結構、暗い学生生活を送っていたのかもしれませんが、今回、F.ストロウスキーの「フランスの智慧」の第7章ラ・ロシュフコーと社交界気質を読んで、それまでに知らなかった、彼のフロンドの乱の戦いでの顔面の大怪我(両眼に銃弾を受ける)のことなどを知り、ラ・ロシュフコーへの高感度が以前に増して上がったように思います。
 ご案内のように、彼は、フランス貴族の中でも老舗の貴族という名家の出身ですが、時の枢機卿、ルイ13世の宰相を務めたリシュリューや、その後継者であるマザランと対立し、貴族の最後の戦いとされる、フロンドの乱によって負傷し、休息と静閑の生活に入った訳です。「箴言」にある幾つかの言葉は、すでに徒然でご案内しましたが、何故に、彼が「箴言」を書いたのか、そして、「箴言」の持つ意味についてストロウスキーの述べていることを、ご参考までにご案内したいと思いますが、礼儀についても述べておりますので、最初に礼儀のことについて、一言。
 当時のサロンで見られたフランスの上流社会での礼儀作法が今もフランス社会に現存しているかどうかは私にはわかりませんが、国際儀礼(プロトコール)に見られるエチケットには、そうした社交界の礼儀作法が多少残っているかもしれません。日本の礼儀作法というものは、いつどのようにして確立したのか私にはわかりませんが、フランスの貴族というのは、武人でもありますが、日本の場合でも、かつての平安朝期の貴族は武人でもあったように思えます(武家政権である鎌倉幕府以降、貴族階級はどうなって行ったのか、この辺の歴史的な事実は勉強していませんので念のため。また、華族制度についても同様です。)。
 そうした貴族生活における習慣性のある動作が礼儀作法というものになって、社会に広まっていくのでしょうが、そうは言っても、礼儀作法というのは、都会的なものではないかと思います。私なんかは、田舎育ちのせいか、全く礼儀をわきまえませんし、礼儀をわきまえていたら、役所での出世ももしかしたらあったかもしれないとは思いますが、後の祭りでしかありません。ストロウスキーは、礼儀について次のように述べております。

「礼儀は愉しく、必要な美質である。礼儀はある程度まで、あらゆる他の美質の代わりをつとめる。と言うのは礼儀は他の美質を模倣し、あるいはそれを前提とするからである。真に礼儀正しい人は、自らの中にあり得る暴慢、情熱、憂慮、苦悩などを隠す。彼は、人生は容易な気楽なものであるかのように語り、振舞う。彼は自分が出会った人々を、まるで欠点などない人のように、少なくとも他をさげすむような不快な念を起こさせるような欠点などはない人のように遇するのである。(中略)ラ・ブリュイエールが書いている。「礼儀はかならずしも、善良さや公平や慇懃や感謝の心を起こさせるものではないが、すくなくともそのような外見を与え、よそ目には内心いかにもそうである筈のように見せかけるのである」と。礼儀の精神はどこにいっても同じであるが、礼儀のしきたりは、国により、階級により、また個人によってことなっている」

 礼儀は特に家庭生活において重要であるのは、家庭こそが個人の育成、個人の生活を如何に営むかの、ある意味の孵化器的な場であり、実験場でもありますので、そういう意味で特に大切なんでしょう。なお、違う意味の言葉に躾がありますが、フランスでは、躾が良いことを「良く教育されているbien eduque」と言いますが、これは他人との間での礼儀にも通ずるものなのかもしれません。

 さて、公爵であった貴族の中の貴族のラ・ロシュフコーが何故、「箴言」という、人間に対する鋭くも、厳しい見方の言葉を書き残したかでありますが、厳しさの背景には、彼の武人としての野心の挫折感もあるでしょう。その「箴言」という形式の書を遺した理由をストロウスキーは、次のように述べております。
「ラ・ロシュフコーのような大貴族にとっては、貴族としての資格を失うことなしに作家になるためには、2つの様式だけを持つことができるのであった。すなわち過去の行動を再現したり、行為の動機を説明する「回想録(メモワール)」か、あるいは法律の書式のように決定的なもの、命令的なもの、客観的なものを持つ「箴言」かであった。ラ・ロシュフコーはすでに「回想録」を書いていた。したがって彼には「箴言」を書くことだけが残されていた。彼は彼の文才であるあの天禀のスタイルと、あの言語に対する深い知識と、あの簡潔と光彩とをもって、これを書いたのであった。」と。
 ちなみに、貴族でもなく、庄屋でしかない先祖を有するモンターニュとしては、ラ・ロシュフコーに倣う必然性もありませんが、仕事にまつわるお話、そして、人生の思い出話も既に書いておりますので、残されたものは、「モンターニュの箴言」だけかもしれません。もっとも、ラ・ロシュフコーの「箴言」は、令和の時代においても読み続けられているわけで、それはラ・ロシュフコーの「箴言」であるから読まれているということであります。

 最後の「箴言」の後世への影響については、ストロウスキーは次のように述べています。

「すべての徳は利害と利己心との偽装された姿にすぎない、というラ・ロシュフコーの体系的な思想はいまなお哲学の問題として論議されている。しかし前にも述べたように、彼の体系的な思想は証明も反駁もされ得ないものであり、その重要性は非常に大きいものではないのである。(中略)しかし人間の弱さや虚栄や情熱や運命について彼の証明と体験は、あらゆる場合に、一つの薬として、また説明としてこのんで引用され、思い出されるほどの真理をもっている。それは馬鹿正直や誤った楽天主義や信心を装った怠惰や偽善への薬であり、人間が自他の中に見出す不足、欺瞞、凶暴の説明である。これは脂粉を塗った顔のあまりにもやさしい色彩を洗い落とすためのよい石鹸である。この点によって、わがラ・ロシュフコーは人間への認識に対して不朽の奉仕をなしたのである。(中略)あまりにも満足しきった馬鹿にならないためにも、あまりに悲痛な覚醒者にならないためにも、あまりりばしば目を覆われていないということはよいことである。人間の真の智慧は真理への勇気を与えるのである」

と。
 ストロウスキーという人は、文才があるのですねえ。誤った楽天主義、怠惰、偽善への薬という表現、そして、脂粉を洗う石鹸という表現、そして、真の智慧が真理を見出す勇気を与えるという表現は、如何にもフランス人らしい表現のように思います。言葉で以て、落ち込んでいる人に勇気を与える、虐げられている弱者の心を鼓舞する、そして、明日への希望を与えることが出来るのが、フランスのモラリストと言われる人のような気がします。日本人で後世に書を以て名を遺している人の多くは、ストロウスキーが挙げているフランスのモラリスト的な人物でもあった気がしておりますが。
 明日は、パスカルについてつぶやきたいと思っております。では、今日はこの辺で。



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