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Etude (30)「様々な思想家の表現形態」

[執筆日 : 令和3年4月29日]

「フランス哲学は常に次のような原理によって規整されてきた、すなわちいかに深淵な、またはいかに精妙な哲学的観念も一般の人々の言葉によって表現され得るし、また表現されなければならないものだ」          アンリー・ベルクソン

 林達夫さんは、「思想の運命】の中の「思想の文学的形態」で、閑却(なおざりに)されていることとして、思想の文学的形態について書いております。思想が文字化される場合、どのような表現形態を取るかということですが、大凡5つあるようで、それは、
1.スピノザの「エチカ」のように、精密科学的な記載形式で、何らかの建築的構成の枠の中へ思想を嵌め込むもの、
2.アミエルの「日記」のように、考えが浮かぶにつれてその著想をしるしていくもの、
3.パスカルの「パンセ」のように、著想に何度も帰ってはこれ改鼠し増補していくもの、
4.デカルトの「方法序説」のように、自らの思想の成立径路を自叙伝的に、しかひどく韜晦的、闕語的に叙述していくもの、
5.プラトンの「対話」のように、一時代の全精神生活を壮大な「思想的ドラマ」の形で総決算しようと企てているライプニッツの意味で、エクレチックなもの、
 これに加えて、
6.モンテーニュの「エセー」のように、書きながら、或いは書くにつれて考える、或いは考えを生み出す思惟活動の形式に従うものとして「随筆」があるとしています。

 林さんは、日本人の思想家の中には、モンターニュのように、書くという事が考えることである随筆型として、西田幾多郎を挙げております。西田哲学は「文章が詩的なリズムを持っている」とか、「引用に頗る芸術的なところが多い」と言われるようですし、本多謙三の「小説に接する感興と魅力を以て読むことができる」の言葉、あるいは戸坂潤の「論理上の文学主義」と言葉にあるように、文学的であります。林さんは、芸術家は、観念が製作に先立ってこれを精確に規整してゆくのではなくして、書くにつれて考えが生まれてくる、「湧いて出る」のであり、西田も考えたことを書くのではなく、書くにつれて考えが生まれてくる人であったと述べています。
 そして、西田哲学は、発想形態において決して完結した思想体系ではなく、むしろエッセイであると。その理由としては、仕事場の雰囲気が常に漂っているからで、「手仕事」のあと(整理され終わったものではなく、整理されてゆく過程が如実に「即物的」にあらわれている)が波状線としてそのままに生々しく伝えているからであると言います。そして、西田の哲学は、体系的な哲学になり切ってはいないが、未完結で、流動的な発展曲線を示しているが故に、動脈硬化症に陥っていないとしています。
 また、西田哲学の性格の一つは、観念遍歴で、既成の哲学体型を辿ることが考えること、つまり書くことなのであって、それ故に、西田の幾つかのモニュメント(作品か)は西田という思想家の読書録でもあるとも言います。そして、モンテーニュの「エセー」は彼の忍耐強い、逞しい書物遍歴が享楽的であるのに対して、西田の方はそれは探究的であるという相違があるだけであるとしています。
 
 どうです、とても興味深い西田哲学の分析ではないでしょうか。分析というか、むしろ読解かもしれませんが、とても面白いと思います。人間学的なもの、つまりは文学的なものですが、を西田哲学から感じる人が多いでしょうが、私的には、西田という人は禁欲的なジャンセニスム信奉者であったパスカルに、どこか似ているような気がします。西田哲学は、悲しみを源泉としての哲学でもありますし。

 さて、ここからは、少し、フランス的なことについてのエチュードです。
 ドイツ人でフランス研究家のクルチウスという人は「フランス文化」で、「フランスという国では、いずれの時代においても、イデオロギーのどの分野であろうが、いやしくも観念形態なるものは必ず文学的に形成され、文学的色合いを有していることがその特徴になっている」と述べていて、林さんは、その言葉から、フランスにおいては、いかなるイデオロギーも、何らかの形で文学的に鋳造されなければ公共生活においては通用しないということであり、政治家も雄弁家として、人の心を打つにはその国の文学的共同財産を十分に所有していないといけないし、哲学は思索的成果によって時代の精神生活に働きかけるためには、公衆的な言語手段と表現形式との高度の修得が必要であると言います。
 林さんの表現を少し変えて表現しますと、フランスでは、文学に変換されていない、一般大衆にとっての通貨としての役目をもたないような哲学は読む価値がない、つまり消費してくれないということでありますが、こうしたことがフランス人をして極めて(政治)哲学的、つまりは文学的な人間としているのでありましょう。フランスでは思想家は専門家としてではなく、著述家である限りにおいて、一般公衆に向かって書く文学者となる限りにおいて初めて社会的意義を有する存在になるということであります。それ故に、
「フランス文学は、人間についての尽きざる会話であり、人間学の教程である」クルチウス「フランス文化」
「イタリア文学が芸術と想像と情熱の流派であり、イギリス文学の中心が感受性と詩情の流派であり、ドイツ文学が夢想と形而上の流派であるとすれば、フランス文学は常に・・・人間を研究し、人間を描き、彼らの行為の原動力を説明し、彼らの「分限(コンディション)と気質」の秘密を透徹し、彼らの生き方を教えるということに専ら従事した、つまりそれは叡智(サジェス)の流派である」ストロウスキー「フランスの智慧」
という事が言われる訳でございます。
 林さんは言います、僅かな例外を除いて、フランスにおける著述者は、皆モラリストであると。そして、フランス文学史は「各社会の人々が到達しようと努力する人間像の変遷の歴史である」と。フランスの思想を研究すると、そこには、必ず文学の問題が、そして、絶えず教育の問題への関心を余儀なくされるのは、まさに、著述者は人間の分限の普遍的形態を求めようとするモラリストであるからという帰結に至ります。
 ストロウスキー(Fortunat Strowski de Robkowa 1866-1952 ポーランド系フランス人、 パリ大学教授)は、「心理的観察の習慣」、「モラルへの嗜好」、「人を識る心遣い」、「人々とともに生活する仕方の探求」を「民族的本能の如きもの、フランスの精神の不可抗的傾向とみなしているようです。なお、モラリストとは、辞書的には、道徳家を指し、特に16世紀から18世紀の人間性や道徳について随想した人々として、モンテーニュ、パスカル、ラ・ロッシュフコー等を指すようですが、随想は想に従って筆を動かすことでしょうが、少なくともモンテーニュの場合は、林さんも言うように、筆に従って想が産出されるので、随想ではなくて、随筆になると思われます。私がフランスに関心が向くのは、案外私自身がモラリストなのかもしれませんが。
 
 と、こうして、物書き(思想的著述者)の事を書きましたが、卜部兼好の「徒然草」にあるように、書き始めているうちに、なんだかものに取り憑かれたように、筆が進むという感じがしないわけでもありませんが、つぶやきとは異なり、明らかに想に従って、文字を入力しているエチュード的エッセイに近い気がします。明晰と簡潔さを、フランス語で多少は学んだ身でありますので、たまには勉強しないといけませんが、「信仰は真理よりもおそらく価値がある。真理は仮借しないが、信仰は母の心を持つ。科学はわれわれの渇仰に対して冷淡であるが、信仰はそれを労って我々を励ましてくれる」
「個々の女について男は女というものを愛するが、女の方では、個人としての男、唯一の特別な人だけを愛する」
といった名言を「ひそかな日記」で遺してる、スイス生まれのアンリ・フレデリック・アミエル(Henri Frederic Amiel 1821-1881、ユグノー教徒、ジュネーブ大学文学・哲学教授)は、林達夫さんも「アミエルと革命」というエッセイを書いておりますが、生前は発表されていなかったアミエルの日記は1700ページにものぼる大著ではありますが、ちょっと読んでみたくなりましたし、ストロウスキーの「フランスの叡智」も。
 日本の公務員は、外交官は少し違うでしょうが、哲学的思考、或いは、文学的素養がなくても務まるかもしれませんが、西洋で国家公務員として働く上では、哲学、文学への関心や、役者的で演技者としての姿勢のようなものが不可欠かもしれません。日本の公務員もサラリーマンも、一様に優秀だとは思いますが、その優秀さは、あくまでも日本の産業社会、特に経済分野ではこれまではなんとか通用してきたのでしょうが、コロナ禍以降は、必ずしも普遍的なものではないようですし、この先が心配されます。今では誰も見向きもしないかもしれないような、古書的な本を読みながら、日本人と西洋人の本質的な違いを発見するのも、エチュードの楽しみの一つであります。何事も、温故知新でしょう。(了)


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