モンターニュの折々の言葉 366「人徳」 [令和5年4月14日]

「人間は意欲すること、そして創造することによってのみ幸福である」

アラン

 先日の同期会の幹事をして、「これだけの人数が集まったのはモンターニュさんの人徳の賜物」というお褒めの言葉を何名かの同期から頂戴しました。私の人徳かどうかはわかりませんが、懐かしい言葉ですね、人徳。確かに、15名も揃った集まりは、役所での公的な集まり以外では、我々の同期では例はないかもしれません。記念の写真を撮って、在外にいる現役の同期にも送りましたが、名前と顔を一致させるのに一苦労だったという反応もありました。

 高齢者社会においては、60代の半ばは若いといえば若いし、まだまだトライする可能性が残っている年齢なんでしょう。他方、現役で特命全権大使とは言え、好き勝手ができるわけでもなく、労務管理も大変です。衰えは隠せないでしょうし、早く隠居したいと思っている人もいるかもしれませんが、特命全権大使になったというのは、外務省人生での成功の一つです。いや、最大の成功でしょう。

 先日ご案内した、アンブローズ・ビアスAmbrose Bierce(1842-1914?)の「悪魔の辞典」にある「成功」の定義は、「成功というのは、自分と同輩者に対して犯すただ一つ許すべからざる罪」だそうです。ですから、成功者はそれなりの対価を一生払い続けるしかないでしょう(笑い)。いや、失礼しました。ビアスという人は「人間の心は一定量の愛情しかもたない。従って、対象が多くなればなるほど、一つ一つの対象が受ける愛情は、それだけ分量が少なくなる」という、愛という形も量も定まっていないものを有限的に捉えるという言わば僻み根性的考えをもっていた人ですので、念の為。

 ところで、フランスのことわざに「幸福に暮らすには、夫はつんぼ、妻はめくらでなければならない」というのがあるそうですが、夫も妻もお互いに寛容でなければ、家庭の幸福は保てない。聞こえぬふり、見ぬふりをする忍耐強さこそ、夫婦の幸せを長持ちさせるというたとえ、ではありますが、その割には、フランスでは昔から浮気は日常的とも言われておりました。政治家も公私混同は当たり前のようなお国がフランスではなかったのかなあと。

 それは極論と言うか、言い過ぎですが、ことわざが正しければ、「幸福というのは、忍耐力如何で決まる」ということになってしまい、凡人には永遠に得られないものになってしまいます。そんなことわざのある国で、幸福とは何かを語らせると右に出るものがいないのが、アランでありましょう。

 アランAlain(1868-1951)は、エミール・シャルティエEmile Chartierが本名で、40年間リセ(高等中学)で教師として務めた人ですが、リセはリセでもそんじょそこらのリセではなく、多くの偉人を輩出している、パリのアンリー四世校。そこで20年以上も哲学を教えていた先生。彼は、新聞に「プロポPropos」を執筆し、その数は全部で5千を越えるとか。主な著作に、「神々」「わが思索のあと」「海辺の対話」などがあります。

 アランという名前ですが、「気立てのいい男、ちょっと田舎者、ちょっと間抜け」という意味もあるとか(シルヴェストル・ド・サーチ)。エミール・シャルティェは、このアランというペンネームを使って「哲学を語らない哲学者」として、そして、「毎日書くこと、天才であろうとなかろうと」として多くの著書を世に残した人ということであります。

 アランは哲学について、「新しい哲学を見出すことなどということが可能だなんてぼくは決して信じなかった。もっともすぐれた人々が言わんとしたことを発見することで、ぼくは満足した。まさにそのことが、もっとも深い意味において創造することなんだ。なぜなら、それは人間を引き継ぐことであるから」と「わが思索のあと」で述べている。

 ジャン・デュトゥールという作家は、アランを「思想を、ほぼあまねく渉猟したこの男は、モンテーニュよりももっと偉大で、もっと深淵で、デカルトよりももっと人間的、もっと控えめである。「わが思索のあと」が現代の「方法序説」であるように、彼の「プロポ」は現代の「エセー」である」とまで述べています。日本人である私には彼のアランに対するオマージュ(賛辞)が正当であるかはわかりませんが。

 私はアランの研究家でもないし、著書(原書)は持っておりません。持っている本はすべて日本語訳の、神谷幹夫訳「定義集」と「幸福論」(いずれも岩波文庫)。「幸福論Propos sur le bonheur」という本は、フランスで1925年に最初に出版された本で、彼が書き綴った「プロポ」(仏語のproposは日本語訳では(おしゃべり風の)随筆、試論となっている)にある、幸福に関連する幾つかの文であるということ。アンドレ・モーロワは、「これは、私の判断では、世界中でもっとも美しい本の一つである」とPLEIADE版の「プロポ」第一巻の序文で述べていて、訳者の神谷さんもまさにモーロワに同感のようです。美しいという形容詞、フランス語でどの形容詞が使われたのが気になりますが、本は男性名詞ですから、belは使わないでしょうから、beau livreなんでしょうか。

 日本には、1997年の時点で、アランの「幸福論」の日本語訳は9種類もあったようですが、肝心なのは、この「幸福論」は所謂幸福論ではないということ。アランの文章は散文ではありますが、どこか韻文でもあり、ですからアカデミックな論文ではなく、私的な詩文のような、友との語らいの詩が「幸福論」かなと。

 「幸福論」は92の短い文章(プロポ)からなっているのですが、文章の題に幸福がついているのは、89「幸福は徳であるBonheur est vertu」、90「幸福は気前のいいやつだQue le bonheur est genereux」、91「幸福になる方法 L’art d’etre heureux」、92「幸福にならなければならないDu devoir d’etre heureux」の4つ。しかし、その他の文章も、幸福と関連する言葉が出てきます。アランからすると、幸福になる方法は至って簡単で、「自分の不幸は、現在のものも過去のものも、絶対に他人に言わないこと」だそうです。ですから、彼は、雨の降っている日こそ、晴れ渡った顔つきをした方がいいし、天気の悪い日には、いい顔をしましょうと諭すのです。

 こんなアランのような人であれば、多分、人を安易に嫉妬したり、ましてやドイツ語にあるような、なんでしたか、そうそう「シャーデンフロイデ」(ざまあみろ)なんていう言葉を思いつく筈がない。シャーデンはドイツ語の損害、害、不幸で、フロイデは喜びという意味の言葉だそうです。テレビの番組で脳科学者だったか、精神科医だったか、偉い学者が説明していましたが、嫉妬というのは、痛みを伴うもので、シャーデンフロイデはドーパミンの放出という喜びを伴ってもたらされるもののようです。従って、「嫉妬」と、「シャーデンフロイデ」とでは、それぞれの感情をもたらす脳の働く場所が違うようでもあります。

 しかし、極々普通の人は、赤の他人の不幸をざまあみろと思って喜ぶとは思えないし、ましてや見ず知らずの他人の不幸は蜜の味などはしないと思うのです。ある特定の人間に恨みでも持っていれば、そうかもしれませんが。

 このシャーデンフロイデというのは、なんだか捻くれ根性のようなもので、被害者意識が強くて、自分の不幸とある人の幸福には、プラス・マイナス的な相関関係、因果関係があると思って、不幸な人間が幸福な人の失敗や不幸を喜んでいるとしか、シャーデンフロイデを私には理解できない。自分が幸福であると思う人は、他人の不幸を喜ぶ筈がないと私は思うのです。ある意味で、こうした歪んだ幸福感は、ビアス的なのかもしれません。しかし、アランの立場からすると、このシャーデンフロイデ的な感情を持つ人こそ、むしろ救ってあげたいと思ったのかもしれませんね。

 ちなみにですが、私はアランではありませんが、昔、親から、人に笑われてもいいが、人を笑うような人間にはなるな、と言われておりましたが、恨みについては、自分自身が恨まれることは勿論困りますが、それよりも自分が他人を恨んではいけないということを教えられました。ある種滑稽な失敗を見て喜ぶのと、不運にも失敗して、不幸に陥って落ち込んでいる哀れな姿を見て喜こぶというのは全く違うとは思いますが、先日ご案内したビアスの「悪魔の辞典」にある「幸福」の定義(「他人の不幸を眺めることから生ずる気持ちよい感覚」)というのは、まさしく悪魔の幸福感情とも言えるでしょう。いやですねえ、こういう暗い感情は。

 しかし、私たち人間は、こうした暗い感情を皆持っているとも言えます。持ってはいるけれども、必死になって表面には出ないように自制しているというか。

 他方、アランは明るい。天真爛漫。アランの「定義集」(2003年第1刷)は、彼の人生に対する信頼、人に対する信頼さを物語るとともに、無邪気さも。だからちょっと田舎臭くて間が抜けている、それでも、私たちの人生航路を明るく照らしている、とても暖かい言葉」ではないでしょうか。だれかの言葉に似ている?まあ、自分からそうだと言うのはなんですが(笑い)。彼ももしかして、ノルマンディーの熊だったのかなあと。ノルマンディーの熊は、5000のプロポを書き、そして本として今も世界中で読みつがれている。私も、これまで多くのプロポを書いて来ています。実は同期の一人が、先日の同期会で「モンターニュさんは、本は出さないのですか」という質問があって、つい「出します」と答えてしまい、これは困ったなあと思っているところですが、アランを見習いますかね。

 えっ!アランの本、一冊も読んでいない? それはもったいない。フランス文学も楽しいですが、エッセイも素晴らしいものがあります。是非、お読みになることを、田舎者の熊が推薦いたしますので。根を詰めて、続けて読まなくてもいい本です。手元に置いておいて、寝るまえに一章か、一節だけでも読むとか、そんな読み方が合いそうな本です。まあ、聖書か経典のようなものかもしれません。

 最後に、アランの言葉をご案内して、失礼を。

「生きることは、どんなことよりももっと、いいことだ。生きることはそれだけで、いい。そんなことは理屈で穿鑿してもだめだ。人が幸福なのは、旅行したり、お金があったり、成功したり、楽しみがあるからではない。幸福だから、幸福なのだ。幸福というのは、人生の味そのもの。イチゴにイチゴの味があるように、人生には幸福の甘さがある。太陽はいい。雨はいい。騒音はすべて、音楽なのだ。(・・・)われわれは無理やり、生きるようには命じられてはいない。われわれはむさぼるように生きている。(・・・・)見ることは見ようと欲すること。生きることは生きようとすることある。」

「あるノルマンディ人のプロポ」


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